お題1 | ナノ


▼ きらめく細胞分裂

9月の空というのはもう秋の空だ。8月に見た青の絵の具をそのまま溶かしたような鮮やかな色ではなく、膜一枚挟んだようにどこかぼんやりとした色合いの空は夏のそれではない。
どうして季節によってこんなにも空の青は違って見えるのだろう、そう思いながら名前は机に頬杖をついて窓越しに空を見上げた。気温か湿度か、はたまた地表と太陽の角度によるものか、考え付くのはどれも浪漫の欠片もないものばかりでどうやら詩人の資質はないようだと改めて認識する。
この空を見上げる行為にも特に意味があるわけではない。6限目が少し早目に終了しホームルームまでの僅かに空いた時間を潰しているだけに過ぎないのだ。教室内では雑談を交わす生徒が多いが彼女はただ黙って窓の外をぼんやりと眺めていた。友達がいないとか口下手とかではなく単に近い席に親しい者がおらず移動する気にもなれなかったしどうせ放課後になればいくらでも話など出来るだろう。
数分の時間を惜しんで話をしたがる気持ちは名前に理解出来ないものではなかったが必ずしも共に過ごす時間と親しさが比例するわけではないことを知っていた。
でも、数年後、大人になった時に学生時代のあの日あの時に話をしていなかったことを後悔する日が来るかもしれないという確信にも似た予測があるのも事実であった。
だがそう思うだけで実際に行動に起こさないこともがほとんどだ。もしかすると自分は冷めた人間なのだろうか。寂しさと自分は周りの人間とは違うのだという少しの優越感が彼女の中で渦巻いた。


こつこつ、と机を爪の先で叩く硬い音に名前が顔を前に向けると冷たさと熱を同時に孕む瞳と視線がかち合った。

「これ」

「あ、ごめん」

小さな謝罪とともに前から回ってきたプリントを受け取る。座席の最後列の彼女は受け取るだけで後ろに受け渡す必要はなくそのまま手元のプリントに目を落とした。さき程の授業の補足が書かれたそれにさっと目を通すと半分に折り鞄の中へと仕舞う。
そして、前の席に座る生徒の背中に目を向けた。先ほど振り返り名前へとプリントを手渡した彼はすでに体をもとに戻している。彼女から見えるのは同世代の男子と比べると広い背中と癖のついた短い黒髪だけだ。白いシャツ越しに後ろから見ても分かるしっかりとした体つきは部活で鍛えられた賜物だろう。
高校生とは思えないほどの落ち着いた佇まい。温かみを含んだ涼しげな目元。部活ではレギュラーを務めまだ2年ながら3年に混じり試合では活躍し副主将としての役目も果たす。
そんな彼に思いを寄せる女子生徒というのも少なくなく、名前自身もそのうちの1人であった。
だがその気持ちを伝えようとか何か行動を起こそうとかいう気は彼女にはない。
見ているだけでいい、なんて言うつもりもないが、思いを告げた後のことを考えるとためらいが生まれる。どっちに転んだとしても彼とのただのクラスメイトという関係は崩れてしまう。最悪の場合も考慮した場合、このままの関係でいるのが一番よいのではないかという結論に至った。意気地なし、と彼女のことを言う人もいるだろう。でも、それの何が悪いのだ。別にいいではないか。彼への気持ちは高校時代の思い出として名前の中へと刻まれる。この思いは淡く美しい記憶として残しておきたい。だからこのままでも構わないのだ。

視線を彼の背中から外すと再び窓の外へと向ける。さっきよりも空に浮かぶ雲の数が増えていた。そういえば夕方から雨が降ると天気予報で言っていたことを思い出す。
明日は雨が降らないといいね、そんな声が教室のどこからかあがった。
ああ、明日は今年最後の花火大会か。
名前も友人に誘われていたが暦の上では秋になっているのに花火を見る気にはなれず約束を取りつけはしなかった。季節感というものを重視するような質ではないが何となく気が乗らなかったのだ。
この教室の中で、学校の中でいったい何人が花火大会に行くのだろうか。
9月に入り気温も少しずつ下がり夜になると涼しいほどだ。夏と比べると格段に過ごしやすいだろう。

クラスメイトの楽しげな話し声、曇り始めた空、明日に迫る花火大会、前の席に座るのは思いを寄せる彼。
とたんに名前は焦燥感に襲われる。心の中でそれでいいのかと誰かが囁く。いや、それは誰かではなくたぶん彼女自身だ。
彼と同じクラスで前後の席になれるのはこれが最後かもしれない。彼と今以上に接近できる機会などこれが最初で最後なのかもしれない。
美しい思い出のままにしておきたい?馬鹿を言うな。それが本当に本心なのか?本当は彼に自分を見て欲しいくせに。もっと話をしたい、他の人には見せない表情を見せて欲しいと思っているんだろう。冷めた、何もかも分かり切ったような大人のフリなどさっさと止めてしまえ。

教室に担任の教師が入ってきたことにより、生徒達はやや落ち着きを取り戻した。
それでもやはり休みを明日に控えているということもあってか教室の空気もいつもより浮足立っている。
担任が簡単に連絡事項を話す。あと数分でホームルームが終わり生徒達は学校という箱から解き放たれる。そこから先は生徒ではなく彼ら個人の時間だ。
そうなれば、もう。
日直の声で生徒が全員立ち上がる。号令に合わせて適当に帰りの挨拶が終わり、誰も彼もが勝手に動き始めた。
名前の目の前の彼も肩にエナメルの鞄をかける。これからすぐに部活に向かうのだろう。
そうなれば、もう、彼女は来週の月曜まで彼と会うことはなくなる。

「赤葦」

名前が名を呼べば彼は振り返る。冷たさと熱を孕んだ瞳が再び彼女を捉えた。

「何?」

「あのさ、えっと、明日も部活あるの?」

「あるよ。夕方まで」

そこで名前は自分を落ち着かせるように大きく息を吸い込む。そして、

「明日、部活終わった後、一緒に花火大会行きませんか?」

彼の目を見ながらはっきりとそう言えば、赤葦は少し驚いたように瞬きを繰り返した。特に親しくもないクラスメイトに急にそう言われれば戸惑うのは当然のことだ。
断られて当たり前の誘いだ。名前も期待なんてほとんどしていない。でもこれを言ったことの後悔と言わなかったことの後悔とを天秤にかけたとき後者の方が重いと思えたのだ。
赤葦は数秒の間黙り込み名前の顔を見つめる。彼女の表情から真意を読み取ろうとしているようにも見える。名前も赤葦の顔を見つめた。いつもと同じ無表情からはなかなか感情が読み取れない。彼女の誘いに何を思い、何を感じているかなど分からない。

「あ、別に断ってくれて全然いいよ。部活で疲れてるだろうし」

「いいよ」

「え?」

「明日、一緒に行こう」

名前は目を見張る。彼女の見立てでは彼がオーケーを出してくれる可能性というものはとても低いものだった。

「まさか冗談で俺を誘った?」

「ううん!違う違う!え、でも本当にいいの?」

「いいよ。あんまり行く気なかったけど折角名字が誘ってくれたし」

名前は何か言おうと口を開くが言葉が見つからずまた口を閉ざす。
彼は名前に気を使い了承してくれたのだろうか、それとも。
彼女の困惑が顔に出ていたのだろう。赤葦は言葉を続けた。

「言っておくけど名字以外だったら断ってた」

「えと…それは」

「まあ、そういうことだから」

そういうこととは、つまりそういうことである。赤葦の言葉が上手く消化できず名前は口をぽかんと開けた。その様子に赤葦はくすりと笑う。

「明日、6時に駅前。いい?」

「え、あ、はい」

「じゃあまた明日、名字」

「うん、また明日」

手を振って赤葦を教室から送り出した名前はまるで夢でも見ているような気分だった。
友達の誘いを断り思いを寄せる彼と花火大会に行くことを選んだ彼女のことを友人はどう思うだろう。いい印象を持たれないかもしれないが、少なくとも名前はこの選択を後悔しない。

これからきっと名前と赤葦の関係は変わっていく。それがどうなるのか2人には分かりはしない。しかし、どうなろうともその思い出は彼女達の人生の中で最も眩しくみずみずしい学生時代の記憶の中できらきらと輝き続けることだろう。



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