海が見たいと言ったのは、私ではなく彼の方だった。私は気のない返事をしたにも関わらず鼻歌なんて歌いながら海岸沿いを走らせるブン太は、いつも通り楽しげであった。
「海なんて、久しぶりに見た」
「いいだろ、海」
ブン太はご満悦気味に海を見ている。口角上げてにこにこしちゃって、何がそんなに嬉しいのだろう。ブン太から海へと視線を移してみても、私はちっとも楽しくなんてない。むしろ昔を思い出して、複雑な気分になる。
「なあ、なまえ」
夜の海は静かで、ブン太の声は凛と辺りに響いた。彼の手が遠慮がちに私の頬に添えられる。月の光を吸収して静かに瞬く水面を吸収した彼の瞳を真っ直ぐに感じながら、この人もこくはくなんていう下らないことをしようとするのかと冷めた思考が脳を過る。ブン太のその薄く開いた口からなんて言葉が出ようとも私には一切無関係で、だったら聞くだけ無駄だと私は口を開く。
「海が汚いね」
「……そうか?むしろきらきらしてて綺麗じゃね?」
「色の話だよ。夜だからましだけど、太陽の下じゃ見てらんないじゃない」
彼の手首を掴んで、あくまで自然に頬から離す。ブン太は少し不満げな顔で、きっと私が触らせないようにしていることに気付いているのだろう。
「私の知ってる海はもっときれいだった」
私の口から言葉が出るのは、果たして彼の言葉を聞きたくないからだろうか。それとも私の話を純粋に、純粋な彼に聞いてほしいからだろうか。
「なまえの知ってる海?」
「もっと澄んでて、もっと広くて、もっときれいなの」
私は海のずーっと先、地平線を見つめる。あの海を探すように目を細めて、海と空の切れ目を平睨する。ブン太が私から視線を外したのを横目で確かめてから口を開く。
「ブン太、私はあんたの彼女にはなれないよ」
「……いきなり何だよ」
「ブン太からは、しあわせのにおいがするから」
ブン太は顔を合わせない。海を見ている。ゆらゆら揺れる水面を映してゆらゆら揺れるブン太の瞳。結構、いいと思うんだけどな。
「たぶん、今俺はしあわせじゃないって言ったら嘘になる。けど何がダメなんだよ。そんなの関係ねーだろ」
「関係ある。けど、説明はできない」
「……なんで」
「私、難しいことって苦手なんだよね」
場に合わぬ笑みを溢せばつられたようにブン太も笑った。笑い声は出さない呆れたような笑顔だった。てっきり怒るかと思っていたからそれは意外で、そっとブン太の手に自分の手を重ねた。私がこんなじゃなかったら、きっと私はブン太の気持ちに応えていたよ。そんな気持ちを込めて。
相変わらずブン太は曖昧な笑みを携えていて、きっと今日で会うのは最後だ。さよなら私のアッシーくん、どうかお元気で。