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上を見上げれば夜空。完全な黒ではないそれに、何とも言い難い色の星が散らばっている。赤の点滅は飛行機。お月さまはにやりと笑うような三日月の時もあれば、うさぎが見えるようなまん丸満月の時もあった。15階建てのマンションの屋上で二人ブランケットにくるまりながら見た夜空が私の宝物だった。足繁く通ってはくだらない話をした。算数のテストの出来が悪くてお姉ちゃんに勉強を教えてもらった。縄跳びの二重回しはできるようになったけど、逆上がりはまだできない。クラスの公太君がめぐちゃんのことすきって言ってた。知っていても知らなくてもいいような、他愛のない話たち。楽しい時間だった。少なくとも私にとっては必要な時間だった。
小学3年生の秋、比呂士は家族と一緒にマンションを出ていった。家が完成したのだとお母さんは言っていた。建築の最中にも何度も二人で夜空を見に行ったはずだった。それなのに比呂士は、このマンションを出て行くことなんて少しも匂わせることなく、別れの言葉すらなしに、私の前から姿を消した。比呂士が学校を転校しなかったことから、学区が変わらないくらいの距離に彼の住む一戸建てがあることは子どもながらに理解していたが、招待されることはなかった。それ以来、私は一人で屋上へと出向き、いつか比呂士が隣に現れるんじゃないかと、ほんの少しの期待を胸に抱きながら夜空を眺めた。ねえ比呂士、これからがいちばん、星が綺麗に見える時期だよ。私は比呂士がいなきゃ星座だって何も分からないよ。比呂士、比呂士。遠いよ。まるで星みたい。近くに見えるのに届きそうなのにはるか遠くにいる。比呂士が見えないよ。早く、戻ってきて。
結局、彼が隣に戻ってくるどころか小学校も中学校も一度としてクラスが同じにならなかったことは、誰かの陰謀とさえ思えるほどだった。すっかり萎縮してしまった私に彼に話しかける勇気などなく、想いばかりが膨れあがって私はいつか破裂して死んじゃうんだと思った。



お姉ちゃんからマニキュアを貰った。それは幼い頃見た夜空だった。暗い青紫に大小のラメが散らばっては光を集めて反射する。比呂士の隣で見た夜空だった。興奮覚めやらぬまま無我夢中で爪に色を塗れば私の爪に夜空が映る。そうして私は思い付く。比呂士にも、夜空を見せよう。
ビンを逆さにして厚めの画用紙に垂らすと、綺麗な青紫がゆっくりと白を侵略していく。とろとろと全て流れ出したら紙を傾けて夜空を広げる。比呂士はあのときのこと、覚えてるのだろうか。取り巻く環境が変わった今でも、あのときのことを。比呂士も同じ気持ちだったら、きっと。



翌日、早くに家を出た。学校に着くともうテニスコートからボールの跳ねる音がしていて驚いた。比呂士が朝練をサボることはないだろうから、急ぎ足で下駄箱に向かった。誰もいないことを確認して、比呂士の下駄箱の中に夜空を隠す。この胸の高鳴りを、私は知っていた。

風紀委員である友達が、今週は毎日登下校のパトロールだとぼやいていた。私は羨ましいかぎりだと思いながら相槌をうつ。どうやらそれぞれの門に立って服装なんかのチェックをするらしい。比呂士に、会えるかな。会えるといいな。朝からそんな話を聞いてしまえば、授業が終わるのはいつにも増して遅く感じた。



放課後、深呼吸をして昇降口から出る。私がいつも使う門に比呂士が居なかったらそれまでだ。比呂士が居たなら、きっと。膨れ上がる期待を鎮めるように胸を手で押さえる。鼓動に合わせて歩みを進めれば、どんどん門が近付いてきて、下を向いて歩く私はいくつかのローファーを視界に捉えた。意を決して前を向けば、そこには彼の姿が。


「ちょっと、いいですか」


あくまで委員会を装って私を呼び出す比呂士に小さく頷き、後を着いていく。比呂士の後ろ姿に一層胸が高鳴る。こんなに身長が伸びて、背中が広い。


「これ、あなたですよね?」


人気の少ない校舎裏、比呂士は胸ポケットから夜空を取り出し私に問いかける。私は笑みがこぼれそうになるのを抑えて無言のまま頷く。比呂士は、やっぱり気づいてくれたんだ。


「お互いにもう、子どもじゃないんです」


目を合わさずに放たれた、そのたった一言に体中が一気に凍てつく。ねえ止めて。私に敬語なんて使わないで。子どもであったら許されるなら、私は大人になんてなりたくないのに。私ばかり、浮かれていた。あの頃のように、どきどきしていた。いやきっと、あの頃から私の思いは一方通行だったのだ。ねえ、優しいとか紳士とか言われないでよ。困ったように拒絶しないで。距離を取らないで。私がいくら比呂士に求めたって、比呂士はひとつも返してくれることはない。義理さえもない。流れ星になって消えてしまいたかった。



あの頃、彼女は自分の世界であった。視界が色づくのも、音に拍子がつくのも、彼女がいたためであった。彼女が笑えば自分も笑う。確かな幸せを感じた。それと同時に、恐怖を感じた。もし、彼女がいなくなったら。私の傍から離れたなら、私は私でいられなくなるのではないか。今ははっきりと自覚している。自分は無知であったと。その感情に名前を付けられなかったのだと。気付いたときにはもう遅いと、相場は決まっているのである。


「もう私はあなたに触れられませんし、話も出来ません」
「なんで、そんなことっ……」
「……なんでも、です」


つまり彼女が暗い顔で俯いていたって、世界を棄てた自分が今更できることなど何もないのだ。


「言い訳、だっ!」


咽ぶのもいとわず彼女は尚も繰り返す。言い訳だ!比呂士のそれは、言い訳だ!不器用な彼女は泣くのだって上手くない。既視感を覚えた私は眼前の烏の濡れ羽色に触れようとした手を制し、唇を噛む。不味い鉄の味がした。世界に触れる権利を、私は持っていない。


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