『なあ謙也』
「んー?」
『静かやなあ』
「せやなあ」
本当に静かだと、暖かなオレンジ色の光を放つ電球を見つめながら思う。耳に当てていた携帯電話を確認すると、右上に小さく02:17と表示されてあった。街は寝静まっているのに時間は眠ることなど知らない。部活が終わってみると、俺は何をすればいいのか分からなくなってしまっていた。本業である勉強はそれなりにしている。テストでいい点を取れれば嬉しい。友人と遊びにくり出すこともある。アホみたいなことして笑い合うのは楽しい。一人でゲームをしたりテレビを見たり、読書をしたりするときもある。面白味を感じる。でもそれらは全部「それだけ」のことだった。何かが物足りないのだ。俺がテニスに向けていた真摯な情熱は、消えてなくなった。きっと俺は高校生になってもテニスを続けるし、そうすれば再び蘇るのかもしれない。じゃあ引退した今でもたまに部活に顔を出しているのに、どこか夢中になれないのはなぜか。真夜中、豆電球が照らす俺の部屋をぼんやりと見ながら考える日々が続いていた。ああでもないこうでもないと暗中模索。そんなときは、決まってなまえから電話がかかってくる。
「お、救急車のサイレンや」
『謙也ん家?』
「いや、うちは夜間やってへん」
『ふうん』
電話越しにサイレンの音が聞こえたらしい彼女は、この音嫌いと呟いた。
『おばあちゃん連れてったから』
「……亡くなったん?」
『おん。中学入ってすぐくらい。私おばあちゃんっ子やったから大泣きしたで』
「想像つかへん」
『そりゃ学校で泣いたことあらへんからなあ』
泣いているなまえを想像してみても、全く浮かんでこなかった。でも、こうやって電話でなまえの多くを知るようになった。「携帯替えたんやけど、謙也と同じ会社やってん。通話し放題やんな」きっかけなんてその程度だ。なまえも俺も理由は違えど眠れないだけなのだ。
電話からは相変わらず静寂の音が聞こえるだけだった。俺たちは無理に話すことはしなかった。自然と口に出る言葉に返事をするだけで、盛り上がることの方が珍しい。
『こんな夜中に長電話なんてイケナイことしとるみたいや』
「なんやねんな突然」
『そう思ただけ』
ガラガラ、引き戸を開ける音が電子音となって聞こえた。音から推測するに網戸だ。続いてカラカラと乾いた音。おそらくサンダルだろう。ベランダに出たんだと思う。
「外出とる?」
『おん。ベランダ』
「寒いやんけ」
『いやー部屋に月明かり差してん。気になって』
なまえの言葉にベットから起き上がり重たい遮光カーテンを開くと、夜空にひとつ、まあるい月が堂々と鎮座していた。ハンガーに掛けてあったダウンを引っ掛けてベランダに出る。
「満月やんけ」
『なー。オリオン座も見える』
「俺星座ってオリオン座と夏の第三角形しか分からん」
『奇遇やな、私もや』
豆電球とは全く違う光を放つ月を見据える。漠然と、鋭利だと感じた。全てを見透かされている気がして、一種の恐怖心さえ生まれる。他言は必要ないと黙秘していた怠惰まで暴かれてしまうような気がしたのだ。
『満月は人を狂わす言うよね』
「犯罪増えるっちゅうやつか」
『私もちょっくら便乗しようかな思うて』
「どういうこっちゃ」
『ほんまにイケナイことするん!深夜徘徊』
にっ。歯を見せて笑うなまえの顔が脳裏に浮かぶ。くだらなくてしょうもない奴。それでいて一緒にいて楽な奴。いつもなら止めたかもしれないが、今日は満月の夜だから、ということを理由にして好奇心に身を任せる。話に乗った俺になまえは小さく笑った。
『謙也っ家行ってええ?』
「あかん。危ないやろ。俺が行くからじっとしとき」
『外出たいねん』
「じゃあ公園で落ち合ってそのまま補導されるか」
『そこはチャリ爆走で逃げ切る』
互いに薄く笑いながらも部屋に引っ込み外に出る準備をする。準備と言っても防寒具を身に付け財布と携帯をポケットに入れるだけだけど。また後でと言って電話を切る。充電は残り30%もないが、遠くに行くわけでも連絡を取るわけでもないから大丈夫だろう。
お月様、冷たく澄んだ光で照らさないで。今はまだ、何事も霞んで見えていい。仄かに柔らかなオレンジを放つ豆電球を静かに消して、俺は部屋を後にした。