ベルフェゴールの名を授けられた瞬間から、こうなることは決まっていたのかもしれない。自分より数分早く外界に触れただけの兄は天使の名をもらい、彼は悪魔の名を与えられた。正当王位継承者は兄であり、周りから与えられる称賛や期待も全て兄へと向けられた。それを幼い子供がなんの感情もなく見ていられるものか。もしできるとしたら、それは相当達観した子供だろう。幼き日々のベルフェゴールもそれなりに現実主義者ではあったが、兄への苛立ちや嫉妬を感じることも多々あった。王である父の態度や待遇の違いに、己の存在を否定されている気すらした。

そんな思いを感じたときベルフェゴールは必ずある部屋に向かう。いつも気怠そうにしている彼の足取りもそのときばかりは軽やかだ。広い城内にある、多くの部屋の一つ。何よりも大切な扉の前で立ち止まり、ノックもなしに扉を開けた。

白で統一された部屋は、侵してはならないような神聖さを持ち、ベルフェゴールを拒むようだった。しかし彼にはそれすら心地好い。広い部屋の窓辺に置かれた真っ白なベッドから少女が笑顔を向けた。

「ベルね?」

「よ」

「ひどいよ、最近全然来てくれないんだもん」

「ししっ、悪かったな」

「いや。一瞬に遊んでくれなきゃ許さないわ」

歯を見せて無邪気に笑う姿に、荒み気味だった心が解かれていく。ベルフェゴールもにんまりと笑みを浮かべた。

「今日は晴れてる?」

「晴れてる。太陽がうざってぇジルくらい」

ベッドに腰を下ろし、伸び放題の少女の髪に手櫛を通す。絹のように美しい髪が一本一本手から零れていく。自分の髪と同じ色のはずだが少女のそれは一層美しく見えた。

「なあ、髪邪魔じゃね?」

「邪魔じゃないけど…あ、でも邪魔かもしれない」

「どっちだよ」

「考えたこと無かったんだもん。ベルが邪魔だと思うなら、切ってよ」

そう言うと思っていた。ベルフェゴールは用意していたナイフを取り出した。

「動くなよ」

少女は頷く。そして、腰ほどまであった長い髪を、躊躇せずばっさりと切り落とした。一部分だけ顎くらいの長さになった髪型がおかしくてつい笑うと、少女も訳もわからず笑った。そのままザクザクと髪を切っていく。少女は終始楽しそうに笑っていた。ベルフェゴールはベルフェゴールで、美しいものを自分の手で壊していく感覚に支配感のような、心地好さを感じていた。10分ほどそうやって髪を切りつづけ、ナイフを仕舞った。

「出来た?」

「完璧、やっぱ俺って天才」

少女は自分の髪に触れ、あまりの短さに驚きの声をあげた。それから確かめるように何度も自分の髪を触った。髪に指を通し、長さを感じとる。そうした結果、不満そうに頬を膨らませた。

「切りすぎじゃない?」

「さっきのうざい長さより全然イケてる」

「本当に?」

「超マジ」

自分と同じくらいの長さになった髪を撫でてやる。男にしては長めの髪と女にしては短めの髪を持つ二人が出来上がった。少年に褒められた少女はコロッと表情を変え、その言葉を疑わずに笑みを浮かべた。少女のこの単純さも、もはやベルフェゴールは持っていないものだった。




その晩、少年は少女を屋敷から連れ出した。

「ベ、ベル、やっぱり怖いよ…怒られちゃうよ」

あえて無視し、少女を抱き抱えて暗い道を走る。これだけ広いと城の敷地内から出るだけでも一苦労だ。少女を抱えて初めてその軽さを知ったベルフェゴールは込み上げる思いを押し込めるように速度をあげた。少しでも力を入れたら折れてしまいそうな身体を丁寧に抱き締めながら。

やっと門にたどり着き、少女を降ろして自分で立たせた。泣きそうになりながらしがみついていた少女は息を切れしているにも関わらず、ここまで走ってきたベルフェゴールの顔色はちっとも変わらない。

「これ被ってろ、お前は何も言うなよ」

「う、うん」

渡された帽子を深く被る。いつも着ているドレスではなくベルフェゴールの服に身を包んだ少女はぶかぶかな袖をきゅっと握った。彼の考えていることが分からなくて不安なのだ。敷地内とはいえ、城からこんなに離れたのは初めてだ。不安を拭うように彼の服の裾を掴んだ。

ベルフェゴールが門を押す。年期が入った門がギィイイと音をたてて開く。それに気付いた門番が二人を見て目を丸くした。

「ベ、ベルフェゴール様、ラジエル様!こんな時間に、なぜこんなところに!?」

門番は初めて生で見る二人に明らかに動揺していた。ラジエルとは、私を指しているのだろうかと少女は思った。弟と間違うなんて失礼な人だと内心で怒りながら、言われた通り口はつぐんでいた。慌てて頭を下げた門番を、ベルフェゴールはさして興味なさげに見下ろす。

「俺達は今から森に行く。父様に許可はとってあるから心配すんな」

「今からですか!?大変差し出がましいようですが、この時間の森は強靭な兵士ですら叫びをあげて逃げ出すほど危険で恐ろしい場所です、お止めになるべきです」

「あー大丈夫大丈夫。俺その強靭な兵士より強いし」

「しかし…!」

二人の会話を黙って聞いていた少女は身体が冷たくなっていくのを感じた。森に行くというのもたった今知ったし、門番はその森がとても危険だという。出来ることなら今すぐ自分の部屋に戻ってベッドに飛び込みたい。だが、一人で戻れるわけもない。

「ちょっと耳塞いでろ」

「ん」

言われた通り耳を塞ぐ。暫くすると再びベルフェゴールに抱き抱えられ、身体が宙に浮いた。耳から手を離した少女は風を切る音に耳を傾けながらベルフェゴールに尋ねた。

「門番はいいって?」

「んー、まあそんな感じ」

にしてももっと強い人間雇えっつの、ベルフェゴールが呟いた言葉の意味が分からなかった少女は頭を彼の肩に乗せた。どれだけ走り続けているのだろう。時間の感覚がなくなってきた。

「ベル、私行きたくない。怖いよ」

「俺が守ってやるから」

「…うん」

恐怖感からベルフェゴールに縋ったのは少女のはずだったが、彼の声も少女に縋り付くようだった。直感的に何かを感じとった彼女は、自分がついて行かなくてはならないのだと悟った。

「着いたぜ」

「ここは?」

森独特の空気を身体全身で感じる。夏といっても肌寒さがある。あちこちから聞いたこともない動物の鳴き声が聞こえてきて、その度に少女の身体が跳ねた。ベルフェゴールは少女の手を引いて湖の前に連れていく。

「ここは、祈りの湖」

「いのりの…知らないわ」

「俺も昨日知った」

手を繋いだ二人は互いに一つの人間になったように感じていた。そうなれたらいいのに、とどちらも思っていた。ベルフェゴールは湖の予想外の平凡さに少々がっかりした。しかし今更止めることはできない。希望はこれだけなのだ。

「この湖には女神がいるんだとよ」

「へぇ…素敵だね。湖は綺麗?」

「水表に月が反射して揺れてる。…そういえば今日は満月だ」

「満月!」

嬉しそうに声をあげ、空を見上げる。無意味なその行動も、今日からは意味のある行動に変わるのだ。ベルフェゴールはするりと手を離した。驚いた少女は空からベルフェゴールに顔を戻す。ベルフェゴールは少女の目の色を忘れさせた包帯に手をかけた。

「な、なに、ベル?」

「動くな」

目の上に頑丈に締め付けられた包帯を解いていく。白い包帯が大地に落ち、長い睫毛を携えた瞼がゆっくりと開かれる。何年ぶりに見たか分からない濁った眼球は焦点が合わず目の中をさ迷っていた。

「王子が月を見せてやるよ」

「無理だよ」

絶望でも怒りでもなく、その感情は諦めだ。少女は優しい笑みを浮かべて小さな手でベルの輪郭をなぞった。

「私はベルの顔すら見れない」

ベルフェゴールはその言葉を聞いて改めて決意した。頬に添えられた手に自らの手を重ねる。どちらが震えているのかはもう分からなかった。

「ちょっと我慢したら終わるんだ。そしたら全部いい方向に進む。俺は神様なんて信じてないぜ。でもこれに関しては存在を認めてやる。あいつの完全な過ちだ。光を失うべきはクソ兄貴だった」

「ベル、何の話か分からないよ」

「お前は、俺を信じてる?」

一人で突っ走るベルフェゴールに違和感を感じながら少女は頷いた。少女の世界はベルフェゴールによって構成されていると言っても過言ではなかった。目の見えない彼女を隠すように部屋に閉じ込めた両親。外界から遮断された彼女に会いに行っていたのはベルフェゴールだけだった。ベルフェゴールは神を信じないと言ったが少女は神を信じている。少女にとっての神とは愛する弟ベルフェゴールだ。ベルフェゴールが何を考えているのかは分からないが、彼は信じてほしいのだ。自分が疑う理由などない。

「目を閉じて」

開けていても見える景色は変わらないのだが、少女は言われるがままに目を閉じた。

そしてベルフェゴールは、







月が傾き出した。ベルフェゴールは焦りと苛立ちで大地を蹴りあげた。何度も頭の中で本の内容を確認する。確かに読んだのだ。湖にものを落とすと湖の女神が現れ、お前の落としたものは何かと尋ねる。その問いに正直に答えると、落としたものよりも良いものを与えてくれる。だからきっと、姉の目も治るはずだと。しかしどれだけ待っても女神が現れない。

ベルフェゴールの、悪魔の言葉を素直に信じた少女は何も知らずに深い湖に沈んでいった。彼の言葉を疑わなかった少女は、光を見ることが出来るのだと、希望を抱きながら死んだのだ。

幼い王子は気付かない。もう少し、もう少し待てば女神が現れるはずだと頭の中で唱える。少しずつ冷えはじめた指先が、最愛の者を殺した手だと気付くまで、あと少し。




/星屑をくい散らかす

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