「生きてるか?」
「いちおう」
むぐむぐ ぺっ
口に溜まった血を大地に吐き捨てる姿は勇ましい。とても女には見えな――ごほん。上半身を抱き起こしてやると、想像以上の鎧の重さに一瞬戸惑った。よくもこんな細い身体で、こんなに重い鎧を付けて動き回れるものだ。
「勝ったぁぁぁああ」
「あぁ」
ぺっ
「汚ぇ」
「口ん中切れた」
顔はパンパンで、身体中切り傷だらけだ。特に左腕がひどい。痛いそぶりは見せないが意識を保つので精一杯のはずだ。眉を潜めて腕を見ているのに気付いたらしく、身体で隠されてしまった。
もうすぐ日が昇る。奇襲から始まった真夜中の戦いは、静かに終わりを告げた。
辺りを見渡してはいけない。これは無言の共有だ。俺は女に大きな傷はないか探していたし、こいつは空から目を離さない。小十郎が兵士を集めて報告を終えたら迎えに来るはずだ。それまではこのなんとも言えない空気を噛み締める。
ぐすん、と隣から鼻を啜る音が聞こえた。どうやら泣いているらしい。無視しようと思ったが、声を上げて泣き出したものだからそうもいかなくなってしまった。
「いて、いて、涙いたい、染みる」
「馬鹿か」
「迂闊に泣けもしない、くそー」
もっと痛い場所はいくらでもあるだろうに大袈裟にふざけてそう言うのはこの空気を吹き飛ばすためだろう。こんな状況でも俺を庇うように座っているし、俺のことを気遣っているのが分かる。お前はなんでそうやっていつも。
「あれ小十郎かな」
「Ah?」
「政宗様!!!」
土埃を上げ、馬に乗った小十郎が突っ込んできた。煙いっつうの。俺の顔を見ると頬を緩め、よくぞご無事で、と言う。俺は頷く。何もかもが堪え切れぬ様子だった。小十郎の目が女に移る。
「よく政宗様を護ったな」
「褒めなくていいから米をくれ!」
「あぁ帰ったらいくらでも食えばいい」
ぺっ
「てめぇ、政宗様の手前だぞ」
「口の中切れた」
「そんなに酷いのか」
口を開けさせ、中を覗くと確かに歯が二本無くなっており血の匂いがした。これは痛いだろう。じっと見ていると女の顔が近付いてきた。
そしてそのまま、俺の口に触れる。
「何してやがんだてめぇぇぇえ」
「痛っ!!!」
小十郎に殴られた女は飛んでいった。そのまま小十郎の説教という名の叫びを聞き流しながらへらへらと笑う女。一瞬で離れた唇に現実味はない。おい、何で俺が奪われる側なんだ。
この戦での活躍を機に、女には勿体無いような呼び名が付けられた。"蒼狼"。蒼い鎧に身を包み単身で戦場を駆ける姿を見た者たちがそう呼びだしたのだ。女は小十郎に次ぐ伊達軍の武将になった。軍にいる者で女の名を知らない武士はいないだろう。
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嘘でしかなかった。例え話でしかなかった。遊びでしかなかった。分かっている。分かっていた。俺は奥州筆頭伊達政宗。この地を守る責任がある。行く行くは天下をも手中に収める男だ。だから、嘘で例え話で遊びだった。分かっている。分かっていた。分かっていなかった。分かりたくなかった。
俺は着実に天下への道を歩んだ。
その道中に、国同士の繋がりを目的とした政略結婚があることくらい、当たり前だ。婚姻を結ぶことは手段の一つだ。
理解しているのに、胸の奥で引っ掛かっている思いがある。
あの日の幼い俺がちらつく。
まだ痛々しく包帯を巻かれた幼子がそれでいいのかと問う。
何を今更。
「私は愛姫様が好きだよ」
はっとして、顔を上げる。ここがどこなのかも分からなかった。ぐるりと首を回して、ここは俺の部屋だと思い出す。思考に潜りすぎた。言葉を発したのは、蒼狼の二つ名を持つ女だ。俺の布団の上に寝転がり足をばたつかせている。ここに小十郎が来たらいつかのように投げ飛ばされ、叱咤されることだろう。今それを咎める者はいない。
突然何を言い出すのかと、怪訝に思う。まるで考えていたことを見透かされたような発言に固まってしまう。
「何だよいきなり」
「明日からここは愛姫様の場所だから来ちゃだめなんだなあと思って、そしたら悲しくなって、でも愛姫様のことは好きだからこんな気持ちはだめだなあって…よくわかんない」
「馬鹿が考え込むんじゃねぇよ」
肘で頭を小突く。どきりとした。いつか、お前は俺に「政宗の右目が小十郎なら、私は心臓になる」なんて大層なことを言ったことがあるが、まさに今それを感じた。まるで感覚がリンクしているようではないか。
俺だって、そこで着物が崩れるのも気にせず寝転がる女はお前だけで十分だよ。ここをお前以外のやつの場所だなんて思ったことはない。あの血の味のイかれたキス以来、俺の気持ちは変わらぬまま。
「別に来たっていいだろ、いつもいるわけじゃねぇんだ」
「ううん…なんていうか」
口をもごもごさせるのは、何か言いにくいことを言う前のこいつの癖だ。何を言われるか思考を巡らせながら言葉を待つ。しかしいくら待っても女の口は開かれない。
女は思いついたように身体を起こすと、膝で俺の前まで歩いてくる。目を閉じて近付いてくる顔にあの日の記憶がフラッシュバックする。二度もされるがままでたまるか。肩を掴んで布団に押し倒した。女は驚いて目を丸くして、それから顔をくしゃっと歪ませた。
「お前はbeastか」
「うぇっ、うう…」
「泣くなよ」
赤子のように声をあげる泣き方は治らない。俺は手首を押さえて馬乗りになっているので泣き顔がはっきり見える。大粒の涙が横に流れていく。ぐしゃぐしゃの顔はお世辞にも綺麗とは言えないのに、世界一美しい。それを舌で舐めとる俺も獣のようだ。
「愛姫様なんて、来なければいいのに」
泣き声に混じって聞き取れた言葉に、何と返すのが正しいのか分からなかった。頷いてキスをしてこのまま抱いてしまえばいいのか。それが許されるならとっくにしている。あの日から変わらない俺の気持ちは、あの日から蓋をしたままだ。越えてはいけない線を、こいつも俺も分かっている。
「ばーか」
狼は孤独を吠える。
さよならゆうやみ