本を投げ出して机に項垂れる。彼はどうやら歎いているようだ。珍しい――寧ろ初めて見た。心配よりも先に湧き出てきた感情は好奇心。空いている隣の席に腰を降ろし、暗いオーラを纏ったクロロを眺める。いつも王のように振る舞う男のこんな姿を見たのは初めてだった。

「どうしたの?」

好奇心は滲み出てやしないか。クロロは頭を上げずに唸るだけだ。益々面白い。頭を撫でても髪を引っ張っても反応はない。このままヘアアレンジでもしてみようか。そう思ってヘアゴムを取りに行こうと席を立つと、勢いよく手首を掴まれた。バランスを崩し、また椅子に座る。なんて強さで掴むんだ。やっと顔を上げたクロロの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。やっと心配の量が好奇心を抜かした。

「ク、クロロ?」
「ここはどこですか」
「……え」

髪を下ろしたクロロが泣くと幼さに磨きがかかるなあ。全く関係ないことを考えていた私はクロロの冗談に笑うタイミングを逃してしまった。わざわざオーラまで変えた念の入れようだったというのに申し訳ない。

「ごめん、もう一回やり直そう、ちゃんとリアクションするから」
「何がですか、ここはどこなんですか!」
「ちょ、クロロ?」

ぐしゃぐしゃの顔で、大粒の涙を零しながら私に掴み掛かるその様子はただ事には見えなかった。目を泳がせ挙動不審に辺りを見渡すクロロの様子は確かにおかしい。私はやっとクロロの異変を真実ではないかと疑った。

「や、やだ、まじで言ってるの?本当に分からない?」
「なにがですか!貴女は誰なんですか!」
「ちょっ、落ち着いて」

私を掴んでいた手は力無く滑り落ちた。震えるクロロを見下ろしながら、私の脳裏にはこの状況を説明する一つの答えが浮かんだ。これは念による攻撃では。今のクロロはクロロであってクロロでない。記憶関連の念だろうか。前にフェイタンが敵の放った念で中身だけ退化してしまったことがある。そうだとしたら。既に好奇心なんてものは微塵もなくなった。泣きながら震えるクロロに私も泣きたくなる。なんて弱々しいのだろう。そんな自分を叱咤する。今、ここにいるのは私とヒソカだけだ。ヒソカには絶対に頼りたくない。クロロは震えながら私を睨み精一杯に警戒している。潜在的なクロロは消えていないようで、少し安心した。

「ここは貴方の作ったチームの本拠地だよ」
「チーム?そんなこと、信じるわけ」
「それから、私はクロロの恋人」

目を丸くして、それから少し申し訳なさそうに俯いた。覚えていないようだ。やはり記憶に関係する念の呪いかもしれない。クロロの手を引き、ソファに座らせた。案外抵抗がなかったのは私が恋人だと伝えたからだろうか。その隣に腰を降ろす。距離は敢えてとらなかった。厄介なことになった。このまま思い出さなかったら、私は堪えられないだろうなあ。

シャルが帰ってきたらきっと何とかしてくれる。私がするべきことはそれまでに怯えた青年の心を少しでも溶かすこと。膝を抱え、顔を上げてくれないクロロ。ずしりと心に違和感と重みを感じる。今更傷付いている。お前は誰だ、は結構堪えているらしかった。これは早く元に戻ってもらわないとまずい。

「僕は」
「うん」
「クロロというんですか…」
「そう、クロロ・ルシルフルだよ」
「ルシル…変な名前だ」

眉を潜め言いにくそうに自分の名前を呟く姿に思わず笑ってしまった。

「自分の名前なのに」

それを見たクロロも困ったように笑って、空気が少し軽くなった気がした。密着して、クロロの身体が強張っているのがわかる。いつもなら直ぐに押し倒してキス、キス、キスなのに。見上げたクロロの顔は私ではなく床に向いてしまっている。

「僕はどうなってしまったんですか」
「記憶喪失かもしれないね」

シャルはいつ帰ってくるだろう。パクでもマチでもいい。フェイタンでも、もう誰でもいい。私より知識を持った人達に来てもらわなくては。だけどこの状態のクロロを置いて、彼等を呼びに行くことは出来ない。ましてやヒソカと二人きりになんて以っての外だ。

「気がついたらここにいたんです。本を読んでいた。僕の服は血に染まっているし、ここは血の匂いがする。重い空気が立ち込めている。僕は、何か罪を犯していたのでしょうか」

なんとまあ、記憶がなくなっても勘の鋭さは健在らしい。素直に感心した。最後の言葉は途切れ途切れだった。このクロロは善人にでもなってしまったのか。私は震えるクロロの手を握り、なるべく優しく努めて答えた。

「心配しなくても貴方はいつでも正しかったよ」

いつだって、私の正義はクロロだった。命や宝を奪うことも、クロロがやれというならそれが私にとって正しいことになるのだ。それはきっと皆がそう思っている。だが今の当の本人はそうは思えないらしい。小さくゆるゆると首を振る。

「じゃあこの血をどう説明するんですか?」
「別に話してもいいけど、」
「言わなくていいです、大体想像はついていますから。僕は、僕のチームは人間として最低なことをしてきた、そうでしょう!?」
「黙って」

人差し指をクロロの唇に押し当てる。クロロが息を飲んだのが分かった。

「否定しないで」
「そんな、これは正しいはずだ」
「正しいとか間違ってるとか関係ないんだよ。クロロの顔で、声で、あなたがここを否定しないで」

シャル、ごめん。私はもう堪えられない。泣き出した私を見てクロロはぎょっとする。そんな反応する、クロロなんて。私は力一杯クロロを殴った。

「いい加減目ぇ覚ませタコ!!!!!」

自分の守り方まで忘れてしまったらしい。録にガードもしなかったクロロは壁まで吹っ飛び、そのままぶつかって崩れ落ちた。はっと我に返り、クロロに駆け寄る。まさか死んでないよね…?脈はあるようなので安心するが、気絶したようだ。今の衝撃で頬が切れてしまったらしい。私よりきめ細かく白いクロロの肌を血が伝う。ばかばかばか。クロロがこのまま元に戻らなかったら本当に息の根を止めてやる。そして、私も一緒に死ぬんだ。

いつだったか、パクノダに聞いたお伽話を思い出した。その話では眠ってしまったのはお姫様だったが、起こし方は、そう――クロロの血を血色の悪い唇に塗る。赤く毒々しい唇に、吸い寄せられる私はさながら物語の魔女だ。このまま二人で窒息死ってのも悪くないなあ。鉄の味に酔う私の口づけはさらに深くなっていく。私もそろそろ酸欠、というときにクロロは目を開け勢いよく突き飛ばした。

「殺す気か!」

口の端に血を付けて怒鳴るクロロの色っぽさに、思わず目覚めたことへの喜びを忘れていた。肩で大きく息をしながら私を睨むクロロはさっきまでの彼とは違う、ような気がする。

「…クロロ?」

まだ信じきれなくて、そおっとクロロに近付く。不安がる私を、クロロは見下すように鼻で笑った。

「どこの世界に気絶した恋人を窒息死させようとする女がいるんだ」
「クロロッ!!!!」

間違いなく、クロロだ。私の好きな捻くれた男だ。私たちの冷酷で頭のいい団長だ。思い切り抱き着くと、バランスを崩して二人で床に倒れた。

「クロロ、クロロなんだよね、本当だよね」
「普通記憶喪失の人間を殴るか?」
「み、見てたの?」
「中からな」

やばい。クロロから離れようとしたが腰をしっかり抱かれていて逃げられない。クロロを殴ったりして、きっと3倍返しが待っている。来たる痛みに備え、震える私に与えられたのは暖かい手だった。

「白雪姫の呪い」
「え?」

私の頬を撫でながら、クロロは幸せそうに言う。

「これ」

クロロは瓦礫に混じって輝く宝石を指した。丸くて小さな宝石だが、見たこともない深い暗い色をしている。

「さっきお前に殴られて吐き出した」
「汚っ」
「雰囲気ぶち壊しだな」

クロロはそれを私の掌に乗せる。結局これが念だったのかわからない。しかし宝石は闇のように輝いて、恐ろしい。これがクロロの中で記憶を奪っていたのだと思うと。握り潰そうとする私の手から宝石を奪った。

「毒林檎を食べた白雪姫は、王子のキスで目が覚めるんだ」
「うん」
「お前は姫って柄じゃないからな。俺のほうがよっぽど美しい」
「もっかい気絶させてあげようか」
「冗談だよ」

そのままクロロの唇は私の唇に触れた。赤い血の唇で、彼は彼を取り戻した。

一瞬、記憶のなかったときのクロロが脳裏を過ぎる。あれはクロロの中にある一つの性格だったのだろうか。もし、選んだ道が違ったらあんなクロロになっていたということか。それはそれは、怖い話だ。

「俺を起こしてくれてありがとう」
「うん」

くしゃりと頭を撫でてくれる。目覚めたクロロはいつだって私の正義だ。



その後、やっと帰ってきたシャルに事のあらましを話すと、殴って気絶させたことを大いに怒られ、一週間クロロ禁止令を命じられた。

ギブアンドテイクである。



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