呼吸をするのと同じくらい、その行為は単純で重要で自然なものだった。天秤に掛けるまでもない。傾くのは何時だって右側。自分の命を越えた重みがこの世に存在する訳がない。正当性はいくらでも並べられる。正が私、悪はその他全て。鋭利な刃物は私の手には余るようだが、滴る赤には親近感が沸くのであった。





捨てなさい、と言われた。大切なものが本当に大切なのか分からなかった。そして急に恐ろしくなった。これだけは守ろうと決めて生きてきたのに目を凝らしてみたらガラクタだったなんて、笑えない。

「無理だよ」

改めて触れて、やはり大切な物だと確認して安心する。捨てられない。これは命を繋ぐ鎖。

「なんで」

ティキは私の言葉をどう捉えたのだろう。笑いながら尋ねられては、馬鹿にされたような気になる。砂になったアクマの死骸は風に吹かれて散っていく。暗雲が立ち込める。これは一雨降りそうだ。雨宿り出来る場所は辺りには見当たらない。街まで行こうよなんて言える状況ではない。ティキは後ろから私を抱きしめ肩に顔を埋めている。耳元で低い声を囁かれると背徳心や罪悪感が芽吹く。ティキはそれを分かりながらやっている。

「エクソシストだから私なの」

ローズクロスと聖痕が対峙して血が流れないのは裏切りだろうか。胸の証を我等は誇りと呼ぶ。一方的に押し付けられた誇り。だけど胸を張らねばやっていられない。嘲笑。遂に雨が降り出した。ぽつりぽつりと小さな雫が天から頬に落ちる。それが段々強くなり、靴の中にもじんわりと染み込んできた。

ティキの手が私の首に伸びる。怖くはない。通り抜けることはなく、喋る度に動く声帯に触れた。

「こんなものただの呪いだろ」

「そうだね」

声帯を揺らす、そこにあるのは私の対アクマ武器、声(ボイス)。ティキの手に力が入った。

「イノセンスさえ無ければティキと出会わなかったもの」

少し、期待していたようだ。見なくてもティキががっかりしたのが伝わってきた。

「…イノセンスさえなければ一緒になれたのに、じゃなくて?」

「普通の人間の私にティキが興味を持つわけないじゃない」

普通の人と普通に出会って普通に恋に落ちて普通に結婚して普通に子供を産んで普通に育てて普通に死ぬ。そんな生き方はなかったのだろうか。きっとそこにはティキはいない。あの日手を引かれて教団にやってきた幼い私はあらゆる可能性を摘み取られ、恐ろしい恋の種が落とされたことにも気付かなかった。どこに戻ればやり直せるか。ネジは巻けない。時間は戻らない。私の運命は最期に悪魔が手を広げて待っている一本道のみだ。

雨がさらに強くなってきた。身体から体温が奪われていく。ティキから伝わる温度も低くなった。こんな些細なことで彼が生きていて、自分と同じ人間なのだと感じる度切なくなるのだ。
私の手の中には正しいものなんて一つもない。罪悪感に背徳感。私の心はいつの間にかノアのように黒く染まっていた。

「取ったら死ぬんだよな」

「うん」

ノアと恋するエクソシスト。

「なあ」

間違いから始まったそれに正解なんてない。

「一緒に死のう」

裏切りにとりつかれた呪われた子羊を神は愛してくれない。

不死と言われる彼が、呟いたその言葉は一世一代のプロポーズなのだと思った。強気な彼の声が震えて聞こえたのは、きっと音を掻き消す強い雨のせいだ。

「――――…い」

「離れてくださいっ!!!」

開きかけた口は、ティキに突き飛ばされたことによって舌を噛んで終わった。驚いて瞬きをした瞬間に状況はガラリと変わっていた。私の前には、馴染んだ仲間の背中。優しい白い髪。黒い軍服。

「毎度毎度邪魔してくれるね、少年」

「こっちの台詞ですよ。大丈夫ですか!」

アレンは振り向かずに叫んだ。私を庇うように立ち、ティキと対峙する。端から見れば私はティキに首を絞められ、殺されかけていたのだろう。アレンが焦るのも分かる。助けに来てくれたアレンを、少しでも邪魔だと思った私は死ねばいい。

「大丈夫だよ」

「良かった…。離れててくださいね」

クラウン・クラウンを発動してティキに切り掛かっていく。彼は正しくローズクロスに値する。公明正大な彼を見ていると、その真逆な私は押し潰されて死にそうになるのだ。

「おっと」

アレンの攻撃を軽やかに避け、再び私の後ろに立つ。腕を捻りあげられ、演技ではない悲鳴があがる。こういうとき、普通は加減するものじゃないのか。

「悪いけど今日は少年と戦う気分じゃないんだよね」

「貴方の気分なんて知ったこっちゃないんですよ。その人から離れてください!」

「それは聞けない相談だ」

瞳はアレンを捉えたまま、低く小さく耳元で囁かれる。ティキの低音は脳に直接響いて背筋がぞくりとする。

「少年、引いてくれなさそうだね」

「あんたが引けばいいでしょ」

「今回はそうするかな。歯噛み締めてろよ…折るから」

「えっ、」

予想外の行動に、歯を噛み締める時間なんてなかった。鈍い音に少し遅れて激痛がはしる。

「っあああ!」

生理的な涙が溢れる私を、ティキは横目で楽しそうに見た。ぶっころす。

「じゃあね、少年」

崩れ落ちそうな身体を支えられてなんとか立っていた私は、ティキの手が離され一気に力が抜けていった。地面に座り込む瞬間、痛みより何より、最後に耳元で囁かれた声が脳を支配した。

瞬きの後、アレンが私を抱き起こしてくれた。私の怪我を心配して、ティキを追わずに残ったのだろう。そういうつもりで折ったのか。もう姿の見えない男に苛立ちは湧かない。憎しみもない。

「次は一緒に死のう、なんて」

うそつき。

呟いた私の言葉はアレンには届かず、心配そうに声をかけてくれた。私の背中を摩るアレンの手は白くて綺麗。そんな手で、触れないでくれ。どうしたって私は、あの黒い、世界一酷い手に殺されることをを望んでいる。


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企画素足に浸るさまに提出


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