形式的な言葉に、形式的な微笑みで返す。生まれてからずっと繰り返してきた儀式のような行為。今更疑問を持つなんてそれこそ無駄だ。優しいけど不細工。お金持ちだけどヘタレ。なんとか良いところを探し出しても、それを上回るマイナス要素が目に入る。今時、政略結婚なんて流行らない。時代錯誤も良いところだ。ばかか。私の叫びは誰に届くこともない。当然だ。声に出すことは許されないのだから。
この部屋だけは私の世界だ。何人たりとも侵させない、絶対の領域。昼の会食にて、手に落とされた口づけを思い出して鳥肌が立った。念入りに洗った肌は色を濃くし、ヒリリと痛む。分厚い唇を押し付けられる、あの気持ち悪さは未だに慣れない。思い出してまた嫌になってきた。込み上げる衝動を抑えるために枕に顔を付け足をばたつかせた。いつかあの男の妻になるなんて堪えられない。拷問だ。地獄だ。そうだ、死のう!
「お嬢様、就寝のお時間です」
「乙女の部屋にノック無しなんて最低じゃなくて?」
何の前触れもなく開けられた扉に、枕から顔を上げて答えた。驚きはない。部屋に入ってくるのは骸しかいないからだ。この狭い世界で私の叫びを聞く、唯一の人間だ。
「まだ眠くないの、お話しましょうよ」
「明日は6時から旦那様に謁見ですよ。起きれるんですか?」
「骸が起こしてくれるでしょ。ね、お願い」
「自分の寝起きの悪さを分かっていないようですね」
文句を言いながらも、ベッドに腰を降ろしてくれた。骸の話は面白い。私の知らない外の世界の話や彼の前世の話、とにかく不思議な話をたくさん持っているのだ。骸は自分の前世を全て覚えているらしい。教師だった彼、兵士だった彼、スパイだった彼。パン屋だったときの話は想像できなさすぎて笑った。彼の話は与えられた物語よりずっと魅力的だった。
「あの話が聞きたいわ」
「またですか」
「いいじゃない。好きなのよ」
それはたくさんある前世の一つの話だった。王子だった骸と町娘の悲恋の話。骸が王子な時点で面白いのだが、それ以上に二人の思いの強さに惹かれた。身分が違っても求め合い、愛し合った。最後は結ばれることはなく二人で心中する。何度も聞いて分かっているはずのラストだが、話を聞く度に涙が零れる。
「あなたが泣くから嫌なんですよ」
ハンカチで頬を伝う涙を拭う骸は笑っているのに寂しそうで、それすらも私は苦しかった。私がこの話を気に入っているのは感動的だからというだけではない。語って聞かせる骸がとても幸せそうだからだ。話しながら愛した女性を思い出しているのだろう。普段とは違う優しい声で語るのだ。
いい具合に眠くなってきた私は電気を消してもらい、目を閉じて会話をねだった。
「骸はいくつも前世の記憶があるのよね」
「えぇ」
「今でも一番その人のことを愛してるの?」
なんとなく聞いた。空気が震えた気がして、そっと目を開いてみる。月明かりを背に受けた骸の顔は見えなかった。
「勿論ですよ」
「むくろ」
目の上に手を置かれ、視界が真っ暗になる。骸の顔は当然見えない。
「おやすみなさい、 」
有無を言わせぬ掌が頭を撫で、私は黙って口を閉じた。骸が小さく呟いた最後の言葉は、誰かの名前に聞こえた。私のものではないが、どこか懐かしくて身体がドクン、と波打つ。もしかしたら泣いているんじゃないか。逆光で顔が見えない骸が心配になったが、押し寄せてくる眠気に誘われてしまう。抗えずにぼんやりとした温かさに包まれながら私は眠りに落ちていった。
私の頭を撫でる骸の目があの話をするときと同じことも、眠った後に静かに落とされる口づけも、お嬢様に姿を変えた町娘が知ることはない。
▼さ迷うその目といずれは出逢う