一つ上の先輩が、自殺した。

小さな町だ。噂は一瞬で広がって僕にまで流れてきた。名前は知らない、聞いたことのないものだった。だけど、同じ学校に通っていたんだ。どこかで擦れ違っていてもおかしくはない。緊急集会が開かれたり、記者が集まってきたりと小さな学校は一気に騒がしくなった。遠い死に、僕は当事者でも関係者でもない。

ああなんて非日常。


▼世界なんて大嫌いだ


「消しゴム、貸してくれない」

それが彼女との初めての会話だった。隣の席になってから一週間、一言も話したことがなかったので話しかけられたのが自分だとは気付かなかった。

「ねぇ竜ヶ峰」

「え、えっ僕?」

「あんた以外に誰がいんの」

「け、消しゴム…。はい」

二つある消しゴムのうちの大きい方を渡した。小さく礼を言って黒板に向き直った彼女の手元をなんとなく見ると、綺麗にまとめられたノートと、それから、少し捲られたカーディガンの隙間に傷が見えた。ぞくりと身体が脈を打ち、目が釘付けになる。ドラマや漫画ではよく聞くが実際に見たのは初めてだ。彼女が手を動かすとさらに傷が見えた。一や二ではない。濃さも違う。きっと傷をつけた古さが違うのだろう。
我に返り、彼女の傷から目を逸らした。いけないものを見てしまった時のような罪悪感と、好奇心がせめぎあう。どうやら心臓は好奇心に押され気味のようで、再び彼女を横目で見た。素知らぬ顔で授業を受けている。その胸の奥にはどんな黒い感情が住んでいるのだろう。夥(おびただ)しい数の傷を重ねた苦しみはなんなのだろう。
授業は当然耳に入ってこなかった。

僕が彼女を目で追うようになったのはそれからだった。今まで意識して見ていなかっただけで綺麗な顔をしていることを知った。友達は少なかった。だけど嫌われているわけではないようで、彼女の持つオーラが周りを寄せつけないようだった。先生もあからさまではないけど彼女を気に入っているようだったし、信頼されて仕事もよく任されていた。たまに、顔を赤くした挙動不審な男子が彼女を呼び出す。それは毎回違う相手で、きっと告白なのだろうと思う。

出来すぎなくらい、充実しているじゃないか。
彼女を知れば知るほど、手首の傷の謎は深まった。



「消しゴム」

次の日も平然と言ってくるものだから、思わず笑ってしまった。

「何?」

「あ、いや、はい」

「ありがと」

一瞬むっとしたのが伝わったので慌てて手渡す。少し消しゴムを見つめてからノートに向かった。昨日から見ている限り完璧だった彼女が連続で消しゴムを忘れるのがなんとなくおかしかったのだ。

「はい」

「あの、よかったらあげるよ」

もう一つ持ってるから、と筆箱から自分のものを出して見せる。少し躊躇ってから、頷いてはにかんだ、その笑顔に。

「竜ヶ峰」

「う、うん」

見惚れていた僕に予想外の発言が飛んできた。

「友達になろう」

やっぱり、どこかずれているなあ。笑う僕に不思議そうな顔をする彼女。僕らは友達になった。





なろうと言われて友達になるのは初めてだった。僕と彼女は確かに親しくなった。しかしそれを友と呼ぶのかは分からない。友情のような、奇妙なつながりのような。彼女は僕と共に行動するようになった。当然周りは付き合いだしたんじゃないかと囃し立てたけど、彼女の一言で黙るのだった。こういうのをカリスマ性って言うんだろうか。何をしてても目を逸らせない。僕もこういう風になれたら、なあ。

「竜ヶ峰ってすごい苗字だね」

ノートによく分からない猫を一生懸命書いていたかと思えば脈絡のない質問。こんなのにももう慣れた。カリスマ彼女の質問に僕もノートに犬を書きながら返す。

「私の苗字なんて日本一多いんだよ、つまらないでしょ」

「エアコンみたいってよく言われるよ」

「それはいやだね」

犬はどうも歪(いびつ)で、今流行りのぶさかわいいとも言い難い。
橙の陽が差し込む放課後の教室は昼間とは違う表情を見せた。部活動に入っていない僕らは暇があれば教室に無意味に残った。

「あ」

彼女が勢いよく立ち上がると、机から鉛筆が落ちた。綺麗な栗色の髪を無造作にかきあげ声にならない声を漏らした。僕は犬をグラデーションで塗る作業を中止し、挙動不審な友人を見上げた。

「どうしたの?」

「図書室の本返すの忘れてた、今日までだったのに」

基本はルーズなのだが、時々しっかり者で律儀なのだ。テキパキ動き出した彼女にだらだらと絵を書いていた名残はない。ノートや筆箱を鞄に詰め込み足早に教室を出ていこうとするものだから、僕も慌てて立ち上がった。

「ちょっ、僕も行くよ!」

「あ、そう?」





図書室に着くと丁度司書のおじさんが帰るところだった。なんとか返却出来て、よかったよかった。しかし全力疾走で図書室まで来たので心臓が痛い。息を整えようと浅い呼吸を繰り返す僕とは違い、彼女は本を返せたことに安心した様子で、まだまだ走れる余裕を見せていた。

「すご、いね」

「竜ヶ峰は体力がないね」

君がおかしいんだよ、と思ったが確かに帰宅部を満喫して運動不足なことは否めないので黙った。今日から縄跳びでもしてみよう。

最終下校の音楽が流れて、空はいよいよ青く黒くなり出した。

「急ごうか」

「ん」

無限の体力を持つ彼女が僕の先を走っていたのだけど、曲がり角で突然立ち止まるものだから僕は小さな背中にぶつかった。悲しいことに大して身長が変わらない、寧ろ彼女の方が大きいせいで顔から突っ込んでしまった。

「どうし…」

ぎゅう、と強く手が握られた。その手が小さく震えていることに気付いた僕ははっとして彼女を見たが、残念ながら前を向いていて表情を伺うことはできなかった。

角の向こうから話し声がする。

「はああ、疲れた!やっと一段落ついたと思ったら、まだ山が残ってたなんてな」

「俺なんてあれからずっと残業だよ、ったく手当ても出ないのに」

先生たちだ。最終下校時間が過ぎているのに見つかったらまずいから止まったのだろう。納得して息を潜めた。悪いことをしているようで楽しくなる。繋いがった手は汗ばんでいた。

「せめて一年後に死んでくれたらよかったのにな」

僕の手を握る力が強くなった。この話は自殺した男子生徒の話だろうか。先生たちでもそういうことを言うんだ。驚きと軽蔑と弱みを握ったような不思議な気がした。先生たちの足音は小さくなる声とともに遠ざかっていった。

「っ、は」

彼女は壁に身体を押し付け、糸が切れたようにその場にしゃがみ込んだ。やっと覗き見た顔は青白く、じっとりと汗をかいているようだった。突然のことに僕は慌てて、何か彼女を豹変させるようなことがあったかと必死にあたりを見渡した。離された手は湿ったまま。彼女は鞄から、古びたカッターナイフを取り出し、それを。

「な、なにやってるの!?」

「………」

無言で傷だらけの手首にあてがったそれを、僕は奪った。抵抗はなかった。

そこで初めてしっかりと彼女の傷痕と向き合った。

想像していたよりもずっとリアルで痛々しく、グロテスク。文章で読むそれとは全く違った。無意識に、手を伸ばして傷痕に触れた。ざらざら、ぼこぼこ。何か、ぼんやりとした何かが指先を通して伝わってくる気がした。

「自殺した男子生徒の月並みな苗字は、この学校に二十人もいるんだって」

ぽつりぽつりと落とし出した言葉は必死に耳を傾けないと聞き逃してしまいそうなほど小さかった。差し込む陽は十に沈んで、緑色の非常ランプだけがぼんやりと彼女を照らして、余計に僕を不安にさせた。

「私も含めてね」

「…うん」

奪い取ったカッターが鈍く光る。

「お兄ちゃんだったんだ」

あまりに簡単に明かされた事実は現実味を帯びずに、僕の鼓膜を揺らした。それから、色々なことが頭を駆け巡った。先生たちの話をどんな気持ちで聞いていたんだろう。あの日僕が喜んだ非日常は彼女を傷付けた日常だったんだ。自分がどうしようもない悪のような気がして、俯く彼女の背中を摩ることさえ出来なかった。

誰も、何も、言わない。

沈黙というには軽く、安らぎというには痛い静けさだった。

「帰ろう」

彼女は黙って頷いた。既に施錠された昇降口ではなく、窓から学校を抜け出す。きっとこんな心境じゃなかったら冒険みたいでわくわく出来たはずなのに。道の端と端を歩いた。スクールバッグを引きずるように持つ彼女は車がきたら飛び出して行きそうなくらいに危うく見えた。

「竜ヶ峰」

「うん?」

からんとした無機質な声は随分昔に聞いたことがあるような気がした。

「私ね、お兄ちゃんが死んだことはどうだっていい。そういう人だったから。先生が何を言おうと構わないし、分からないわけじゃない」

鋭い鉄線が彼女の心に張り巡らされているような気がした。触れたら許さないと警告している。だけど僕はふらふらと白線を歩く彼女に近付いて、腕を掴んだ。どれだけ遠いかと思った距離は簡単に越えられた。

「なんでそんなこと」

「だってそう思わないと、傷付くじゃない、私が!」

今まで彼女がこんなに取り乱したことがあっただろうか。あまりに白く細い腕も、赤黒く刻まれた傷痕も、鉄線だってなんの盾にもならない。彼女の傷は彼女を守るどころか余計に暗闇に追いやって首を絞めた。頼りにしていた鉄線は意図も簡単に千切れて、心に落ちた新しい傷をつけた。そんな腕で拒めるものなんてほんの一握りしかない。

「何かに執着するのは嫌なの」

僕の前で彼女が笑ったのは一度だけ。

「始まった瞬間から、いつかそれがなることが怖くなる」

あんな消しゴムの何が嬉しかったんだろう。

「信じたって瞬間から裏切りに怯えていかなきゃいけないのに」

何がささくれだった心に触れたんだろう。

彼女は綺麗とは言えないアスファルトにへたりこんで、空を睨んで泣いた。泣き声のない、静かな生を見た。

可哀相だと思った。

裏切られても大丈夫な人間なんていないよ。永遠なんてないから、人間は支えをその度に変えて生きるんだよ。彼女にはそれが出来ない。ほかの誰よりも心が脆くて弱虫なんだろう。僕の予想だと、彼女の兄は彼女が縋る唯一か数少ないものだったんだ。それが失われた。彼女を信頼する教師たちはその兄の死を叩く。

「私馬鹿だよ」

もうすぐ冬だなあ。こうして外で話しているだけで身体の芯から冷えていく。アスファルトに座っている彼女はもっと寒いはずだ。

「ねぇ、みかど」

「うん」

ぐずぐずと鼻を啜る姿は赤ん坊のようだ。そう思って、確かに、と自分で納得した。彼女は大切に守られた子供のまま大きくなってしまったんだ。初めて呼ばれた下の名はたどたどしく、耳にざらつきを残した。

「大きいほうの消しゴムをくれたり、私が呼べば止まってくれて、見たいテレビがあるのに一緒に本を返しにいってくれたり、泣いてる私に付き合ってくれるのは、なんで?」

「なんでって…」

「帝人はそうやって誰にでも優しくするの?」

それくらい、普通じゃないのかと思ったけど彼女にとってはそうじゃないんだ。優しさに飢えている。

「するよ」

なんて答えるのが正しいのか分からなかった。だけど嘘をつく前に口が動いてしまった。何て言えばその手首に傷が増えずに済むのだろう。

これは同情だろうか。好奇心だろうか。それとも純粋な気持ちなのか、自分でも分からない。ただ子供みたいに小さく丸まった美しい友達を見捨てるなんて、それこそ無理だ。なんとなく頭を撫でて、怒られるかと思ったら逆にその手に頭を預けてきた。

「私と帝人以外いなくなればいいのにな」

投げやりな声。きっと明日も彼女の傷は増え続ける。兄の代わりに教師の代わりに消しゴムの代わりに、今度は僕に執着して、それを認めないで生きていく。

優しいはずの世界にすら怯えて怯えて、可哀相な彼女。

――――――――
企画/人格者様に提出

無頓着なフリをしないと生きていけなかった、ってことで、あわわまとまらん!
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -