死にたい。
小さな唇から落とされた言葉は、それよりさらに小さな声で紡がれた。普段なら聞き落としてしまいそうなものだが、静寂が支配する部屋の中では充分すぎるほどに響き渡った。俺は読んでいた本を閉じ、溜め息を飲み込んで宥めた。
「医者にもうすぐ治ると言われただろう。あと少しの辛抱だ」
女は頭を横に振った。
「もう、こんなの惨めすぎる」
もう何度目かわからないやり取りに、俺は疲れ果てていた。
病に侵されてから変わったのは乾燥した唇だけではない。血色のよかった頬は痩せこけ、青白い。目の下には深い隈が住み着いた。変わったのは外見だけではない。明るくじゃじゃ馬だった女はどこへ消えたのだろう。口を開けば死にたい、死にたい。病は気からとはよく言ったものだ。このままの調子では治るものも治らない。
「一日前に戻り続けたいの」
「どういうことだ」
「それで病気になる前に戻るの、最後は母様のお腹の中で消える」
うん、消えたい。
女の死にたいは遂に消えたいに変化した。俺にどうしろと言うんだ。溜め息を吐くと、女は肩を揺らして俯いた。死にたい。そんな言葉は聞きたくない。誰が、愛した女の自殺願望を黙って聞いていられるか。俺は荒々しく部屋を出た。
情緒不安定なのは仕方がない。身体が思うように動かなくなる恐怖は、想像を絶するだろう。
こうなることは分かりきっていたはずだ。それを受け入れて一緒にいることを決めたはずなのに。なんと情けないことか。日に日に衰え気持ちが落ちていく女を見ているのが堪え難いのだ。俺の好きだったあいつはいない、あいつは病と共に死んだ。そう思えたらどれだけ楽か。頭を振り、考え直す。あの部屋にあいつを一人にしてはいけない。あいつは物語が好きだ。何か気の紛れる本でも持っていってやろう。
両の手に抱えられるだけの書物を持ち、襖を開けると布団に横たわっているはずの女がいなかった。嫌な予感が脳裏を過ぎり、嫌な汗が滲む。
風が髪を揺らす。
「な、っ!!!」
窓が開いていた。
その奥には、屋根に乗った女。
持ってきた書物を投げ出し、何も考えずに俺も屋根に降りた。女は首を振り、来るなと叫ぶ。
「止めてよ…!もういい!」
「馬鹿が!早くこっちに来い!」
「三成の邪魔だけはしたくなかったのに、こんなあたし、もういらないよ」
今の状態こそが一番迷惑だと言ってやりたい。そして殴ってやりたい。思いきり。俺と共に生きると言った女はやはり死んだのか。病に蝕まれたのか。それとも、女の望み通り消えてしまったのか。
もうどれでもいい。
細すぎる手首を掴み、部屋に引き戻す。力の衰えた女の抵抗など意味のないものだった。その腕には自分で引っ掻いたのであろう傷が広がっていた。
「もう、や、死に」
殴った。思いきり…とはいかないまでも。それ以上は言わせぬように。驚いて黙らせることはできるくらいに。
「なら死ね」
自分でも予想以上に苛立った声が出た。震える女に満足感が芽生える。ほら見ろ。お前は死にたくなどないんだ。自己満足で口にしているに過ぎない。だから薬や俺に縋るのだ。生きる術を与えてくれるものに頼っているんだ。女の頬に手を添える。
「…や」
満足感は泡のように消えた。脅えさせたいわけではない。咳ばらいを一つ。
「あと、30年程生きてからな」
人間50年。ならばあと30年くらいは生きてみろ。まだ半分も生きていないお前なんかの言葉に重みなんて一つもないんだ。
泣き出した女はもう、死にたいとは言わない。お前の軽い死にたいに殺され続けた俺の思いも、もう死なない。
「生きたいっ…、あたし三成と生きたいよぉ…!」
「あぁ」
俺に抱き着き泣きわめく。こうなるまでが長すぎた。足掻くことも縋ることも頼ることも醜いわけがない。どこまでも生に執着してくれ。
どうかお前はいつまでも人間で。
昨日を連れて生きる君