※大体模造の梵天丸夢
ひい、ふう、みい
足元に広がる花を指折り数えていた。数え切る前に指が足りなくなった。急に全てがつまらなくなり綺麗に見えていた花も陳腐に感じた。苛立たしさが心臓を蝕む。小さく弱い花は踏んでしまえば、もう天を向くことはない。ぐしゃり、ぐしゃり。楽しくはない。心も晴れない。
――悪いのは、
反抗できない弱者をいたぶって快感を感じるほど落ちぶれてはいないらしい。安堵する。こんなことをしないと自分を慰められないのかと、また嫌悪。
そんな行為を繰り返しているとわしの名前を呼ぶ声がした。優しく咎めるような声色に一気に罪悪感が芽生えた。
――悪いのは醜い、
直ぐにその気持ちを振り払う。振り向くとなんともいえない顔で女が立っていた。
「やめましょうよ」
「お前に関係ないわ」
「可哀相に」
女は屈み込んで折れた花に触れた。高かった目線がわしよりも下になる。可哀相に。花に向けられた言葉なのに、わしに真っ直ぐ突き刺さる。わしが何よりも、嫌うのは同情だ。何よりも求めるのも、同情。そこから生まれる愛は信じきれない。軽くて空っぽだ。しかし、愛はいくら与えられても渇いていく。いつまでも満たされない、足りない。わしにはなにもない。
「梵天丸様はいずれ天下を治める男になるんです。花の痛みくらい分かる男になって頂かなくては」
折れた花をいくら撫でても元に戻ることなどない。けれど彼女は花を慈しんだ。伏せられた目はきっと慈愛に満ちていていることだろう。わしはその目がとても嫌いだった。
天下ならわしより有能で期待されている、弟が治めるだろうよ。
心の中で呟く。軽口としてすらその言葉は言えなかった。自分で言ってしまうわけにはいかない。誰も否定してくれない。ぐっと唇を噛み締めると、痛みを感じないことに気付いた。母様の言う通り、わしは人間ではないのかもしれない。
「もうすぐ夕餉の刻ですよ、戻りましょう」
袖を振り払い立ち上がる。想像通りに瞳は揺れていた。嗚呼やはり、彼女は慈愛の化身だ。深く黒い瞳のそれに映る自分が嫌いだった。そこにいる自分は世界のあらゆるものに脅えていた。嫌っていた。殺していた。わしの醜いそれらを知ってなお微笑む女は、恐ろしい。
「一人で戻れ」
顔を背けて足元の花に目をやる。彼女が優しく撫でても花は元には戻らなかった。折れた花がわしを睨む。うるさい、だまれ。わしは悪くない。悪いのは弱いお前たちじゃないか。
女にどんなに優しく諭されようが、折れた、片目を失った不完全なわしは、もう戻れない。悪いのは誰だ。母様か、父さまか、弟か、家臣か、女か。
弱い、己か。
「わらわは悪くない、感謝せい。悪いのは醜い梵じゃないか」
「――っ」
闇に鷲掴みされたように、心臓が鼓動を速めた。どっどっどっ。耳元に心臓があるかと思うくらい大きな音がする。目を背けたんだ。なのに現実が首筋を撫でる。
「義姫様ったらひどいことをおっしゃりますね」
わしを見つめる女の表情は変わらない。心臓が有り得ない音をたてる。そんな目でわしを見るな。同情するな。哀れむな。愛するな。触れるな。
こわいんだ、なにもかも。
女の一挙一動に母様が見える気がした。どこか姿が被るのだ。あの目、あの声、あの手は全身でわしの存在を否定していた。母様がこれほどまでに言うのなら、きっと悪いのは全てわしなのだ。
女の手が頭に置かれても、振り払うことはできなかった。
「小十郎から聞ききましたよ、姫様が梵天丸様に毒を盛られたって」
「ちがう!」
「梵天丸様」
女の手はゆっくりとわしの顔へと滑る。頬に触れる手は柔らかく暖かい。誰かの体温を感じたのが久しぶりで、涙腺が緩みそうになるのを必死に堪えた。懐かしい記憶がちらつく。
「現実から逃げてはだめです、背いたら闇はもっと大きくなるんです」
「わ、わしは逃げてなど」
その目をから逃げるために俯こうとした。だが、頬に添えられた手がそれを許さなかった。真っ直ぐに視線が絡み合う。
「逃げないでください、貴方が逃げたらすべておわってしまう」
女の瞳が揺れたのは慈愛のためだけではなかった。頬に触れた手が震えているのは寒さかではない。そうか、お前も。
「…食べれんのだ」
遂にわしは崩された。ぼろぼろと零れていく弱音や、悲鳴。ずっと奥に隠しておいたのに、意図も簡単に引きずり出されてしまう。
「あれから何一つ喉を通らんのだ。何かを口に入れるのが恐ろしいのじゃ」
もう死んでもいいと、思ったはずだった。なのに身体はそれを拒む。母様に嫌われて殺されかけても尚わしは生きようとしている。矛盾した心と身体にも苛立つ。
だけどもう、わしは気付いてしまった。女のその目が揺れた理由も、震える手の訳も。嗚呼お前も同じだ。そこにあるのは恐怖。わしがいなくなることを怖れている。それは確かに慈愛だ。そして恐怖だ。抱きしめられて初めて感じる何もかもに、無性に泣きたくなった。つい先程わしが踏み潰した花が浮かぶ。女が花を慈しむのは、きっとわしに似ているからだ。
「梵天丸様」
女はわしから身体を離して立ち上がった。もう大丈夫だと思った。女の目を見ても苦しくはない。差し出された手を迷いなく握る。少し湿った温かさは人間らしくて、気持ちがいい。城へと向かう足は枷が取れたように軽くて我ながら驚いた。怖くないわけではない。完全に大丈夫なわけではない。まだ頭に母様はちらつく。あの目や言葉を忘れることは出来ない。城に戻ったらまた死にたいと自分を殺す夜を過ごすだろう。
「今日は鯖だそうですよ」
「……それは楽しみだ」
それでも、今日は久しぶりに飯を食う。飲み込んでやる。花を踏まぬよう、わしは女と城への道を歩いた。
▼人の寄る辺で在る人