○してる。○して、○、○、○…。
「お目覚めかな?お姫様」
「………いざや」
「また丸一日寝てたみたいだね」
非常に不愉快な圧迫感と共に私の眠りは終わりを告げた。夢は怖いものばかりが溢れていて非現実的だ。だがそれを逃げ道として、私はいつしか睡眠によって自己を保つようになった。折原臨也は私の腕を掴み、大袈裟に首を振りながら溜め息を吐いた。私は食事を取る時間すら削ってひたすら寝ている。日に日に衰えていく体力や筋力、病的な痩せ方に危機感を覚えないわけじゃない。だけど寝ることを止めても私は死ぬ。遅かれ早かれだ。これは精一杯の自己防衛なのだ。
掴まれていた手を振り払って布団に潜り込んだ。いつまでも私に構う臨也。私は睡眠を第一に考えてそれを実行する新しいサンプル。人間を愛する臨也は私のような奴にも興味を持つ。そうしたら最後、もう逃げられない。
「今日は池袋に行こうと思うんだ」
無視を決め込む。押し寄せてくる睡魔に身を任せれば、いつものように悪夢が私を迎えてくれるはずだ。しかし脳は勝手に臨也の言葉をかみ砕いて考え始める。何故池袋に?静雄が嫌いなのに?またからかいに行って怪我をして帰ってくるつもりなのか。頭はいいのに、学ばない男だ。
「ちなみに君も連れていくから。見せたい所があるんだ」
「ちょっ、やだ!」
勢いよく布団を捲り上げられ、臨也は私の手を掴んで立ち上がった。うそ、まさか、このまま?嫌な予感が過ぎる。強引に手を引かれ、臨也はずんずん進む。このまま外に連れ出すつもりだ。焦って履いたのは靴ではなくスリッパ。パジャマではないにしても外に出掛ける格好ではない。池袋なんてお洒落の塊のような街をこの格好で行くなんて無理だ。お風呂だって最後に入ったのは三日前だ。眠気が引き、脳が冷たくなっていくのを感じた。
「ま、待って!」
臨也は振り返らずに足を止めた。玄関の一歩手前。必死に抵抗した私は息を切らしながら懇願する。
「行く、行くから…ちょっと時間をちょうだい…」
「うん、急がなくていいよ」
なんとも簡単に臨也は手を離した。驚きと呆気なさに顔を見ると、そこには企みが成功したときの清々しい笑顔。背筋を冷たい何かが走る。しまった、と思ったときには時既に遅しだ。臨也は玄関に置いていたスーツケースを差し出した。ここでこうなることも想定済みというわけか。抗っても歎いても仕方ない。早くも痛み出した胃を慰めながら、スーツケースを受けとった。
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「いいね、凄く似合う」
「最ッ悪」
外に出た私は繋いだ手の先の臨也睨みつけた。
「まさかあんたにこんな趣味があったとはね」
「お洒落した好きな人と街を歩く趣味なら誰もが持ってるんじゃない?」
思わず聞き返しそうになって、言葉を飲み込んだ。こいつの言葉を深く考えてはいけない。これは興味深いサンプルの私がその言葉にどんな反応を示すのかという実験に違いない。そこら辺のチャラついた男より質が悪い。反応しない私をどう思ったかは知らないが、臨也の機嫌が良いことだけは確かだった。音の外れた、というよりわざと外した鼻歌を歌う彼は不気味だ。
スーツケースに入っていたのは洋服だった。これを着ろということなのだろう。それが普通の、スカートとシャツだったりしたら悩むことなく着れた。そこにあったのは所謂ゴスロリと呼ばれる服だった。身体の力が一気に抜ける。嫌がらせだ、絶対に。一言文句を言おうかと思ったが丸め込まれるに決まってる。久しぶりの外がさらに憂鬱になった瞬間だった。
「やっぱり似合ってるよね。俺の予想通り」
「池袋でこれは…」
やはり東京、こういう格好にも割と寛容的だ。しかしそれでも集まってくる視線に感じるのは恥ずかしさ以外の何物でもない。死にたい死にたいと心の中で繰り返す私と違い、臨也はひたすら楽しそうだ。そうやって手を引かれてたどり着いたのは、古びたビルの屋上だった。
「ここは?」
「俺のお気に入りの場所」
臨也の趣味がおかしいのは今に始まったことじゃない。古びて汚い廃ビルは漂う空気すら陰気くさい。
「もう少ししたら面白いものも見れるからさ」
絶対に声を出したり動いたりしてはだめだと念を押され、タンクの上に座らされた。臨也は離れたフェンスに寄り掛かりながらにやにやしている。何を考えているんだか。
辺りを赤く染めた夕陽はいつの間にか落ちて、ジリジリと頼りない街灯だけが残った。臨也の顔もぼんやりとしか見えない。イベントはいつ始まるのか、ずっとコンクリートに座っているのでお尻も痛くなってきた。何より、飽きた。臨也、と声を掛けようとした瞬間、勢いよく扉が開く音がした。
「はぁっ、はあ、はあっ!」
屋上に飛び込んできたのは中年男性だった。息を切らしながら辺りを伺うその様子は明らかに異常だ。ぼやけた明かりが微かに口元を吊り上げた臨也を映す。
「あ、あんた、奈倉か!?」
「そうですよ、イシズさん」
男は臨也に掴み掛からんばかりの勢いで詰め寄った。私は臨也が奈倉と呼ばれたこと、男と知り合いだったことに驚きながら二人を眺めていた。イシズと呼ばれた男の顔は見えないが、声からとても喜んでいることがわかった。
「ああ良かった、早く、早く貸してくれ!今も何とかあいつらから逃げてきたんだ」
「それは大変でしたね」
「あぁ、でも奈倉、あんたのお陰で」
「さて、ここで残念なお知らせです」
何となく話が読めたような気がする。嫌な予感。臨也の言葉に興奮していた男の動きが止まる。
「なんだ…?」
あぁ、その顔はもうだめだ。臨也はとても愉しそう。私は悪趣味な奴に吐き気を覚えると共に、それ以上に愛おしい暗闇に眠気を感じていた。私が睡魔と戦っている間も話は続いていた。
「俺はあんたに貸す金なんて持ってないんですよ。掲示板で出会った見知らぬ人間に無利子で30万も貸すわけないだろ?」
「は…?お、何言ってんだよ、おま」
「だからここにいても無駄。さっさと逃げるなりローン組むなりした方がいいんじゃないかなあ」
「ふっ…ざけんなぁあ!!」
眠りに落ちかけていた意識は男な大きな怒声に引き戻された。臨也が男にフェンスに押し付けられる。臨也が追い詰められている光景は珍しい。しかし実際に追い詰めているのは臨也なのだ。その証拠に男はどうしようもない程吃りながら叫び、臨也はあくまでも余裕な姿勢を崩さない。
「本気で俺を当てにしてたわけ?それって相当奇特だよね、逢ったこともない人間に自分の人生を托すなんて」
「おっ、お前が貸してやるって言ったんだろ!?」
「うん、でも俺、嘘つきだから」
最低な台詞を悪びれずに言う。こいつに口で勝つことは不可能だ。
「納得いかないなら理由を付け加えてあげるよ。実際に逢った君がとても平凡で強欲でつまらない人間だったから貸す気も失せた。それにあんたも返す気なんてないんだろうに」
男は言い返すことも出来ず、臨也の胸倉を掴みながら固まっていた。荒い息遣いが私にまで届く。はあ。だから私は現実が嫌い。汚い。
「臨也」
ついに堪え切れなくなった私はタンクから二人の前に降り立った。男は急に現れた第三者に、不安定だった心理状況も伴い大きく驚いた。臨也は動くなと言われていたのに動いたから怒っているかもしれない。
「だ、誰だテメェ!?」
「全然面白くないじゃない、不愉快」
私がタンクから降りたのは男を助けるためじゃない。こんな茶番に堪えられなくなったからだ。
「動くなって言ったじゃない」
「じっと見てられるほど面白いものでもない。帰るよ」
「だ、誰なんだよテメェは!!」
男はもう駄目だ。目に映るもの全てに怯えている。ふわふわの黒いスカートを翻し、冷や汗をだらだらと流す男に向き直る。大きく肩を震わせた姿を見て、たんかを切っていたのは何だったのかと思う。
「神様」
私は早く帰って温かい布団と柔らかい枕と共に寝たいのだ。そこの臨也の知り合いで今日は無理矢理ここに連れてこられた可哀相な一般人です、と説明するのは面倒だったので四文字で簡潔に流した。逆上してきたら臨也を盾にして逃げよう。そう思っていたのに男の反応は想像を越えてきた。
「は、ははは…!はははは!神だと!?あは、ははは!!」
「え、やだ、臨也、」
「あははは!やっぱり君って面白いよねっ!」
「どっちも駄目だ…」
男は身体をのけ反らせて笑い、臨也も高笑いする。狂ったように笑う二人の男に挟まれた私。心の底から死にたいと思った。
先に冷静さを取り戻したのは臨也だった。
「折角神様も来てくれたんだ、チャンスをあげるよ」
「はっ、はは……」
「実は30万、持ってきてまーす」
お馴染みのコートから無造作に突っ込まれていた札束を取り出す。男はピタリと笑うのを止め、臨也の手元に釘付けになった。
「た…頼む、くれ、…寄越せ!」
「おっと」
普段静雄から逃げている臨也がただの男の攻撃を避けられないわけがない。臨也からお金を奪い取ろうと突っ込んでいった男は無様にフェンスに激突した。
「そんなに焦らなくてもあげるって」
臨也の口元が吊り上がる。
「取れるなら、ね」
いつか私が金持ちになっても、こいつみたいにはなりたくない。神様は客観的にその一瞬を目撃した。臨也が30万を下に向かって投げた。散らばるお札、風に流されていく。あ、あああ。声にならない声をあげた男は、一瞬躊躇い、お金を追って屋上から飛び降りた。
――――…
数秒後、下から破裂音のようなものが聞こえた。
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