あなたの輪郭だけ描けない



スケッチブックに走らせた鉛筆の芯が、ポキリと音を立てて折れる。半径数センチほどの円形に広がった黒色の粉末を軽く吹くと、それは一瞬で散り散りになって紙の上を滑り落ちていった。ちっとも完成しないその鉛筆画を眺め、秋原は深くため息をつく。

ぼんやりと頭の中にある映像を紙に映し出すのは得意なはずなのに、どうしても今描いているものだけは納得いく出来に仕上がらない。スランプかと思ったが、それ以外のものは上手く描けるから、どうもそういうわけでもないらしい。

「んー……。お腹減った……。」

そうつぶやくと同時に胃が小さく空腹を訴える。長い間集中していると、力が抜けた瞬間それまで忘れていた欲求が思い出したようにどっと押し寄せてくる事はままある。今回は食欲だった。

ふと時計を見ると、時刻は午後の9時になろうとしていた。窓が塞がれた太陽の光の届かない閉鎖空間では最早時計など本来の意味をなさないものだが、それでも長年染み付いた習慣が簡単になくなるわけがない。

夜時間になる前に食堂で何か食べて気分転換でもしよう――そう思い立ち、秋原は自室の扉を開ける。一応戸締りをしっかりとして、すぐ近くの食堂へ足を向けた。

その時だった。

「……あれ?秋原クン?」
「!」

高校生男子のものにしては少し幼い声で名前を呼ばれ、心臓がドクリと音を立てる。逸る気持ちを抑えて平静を装い振り返れば、驚いたような表情でこちらを見つめてくる少年がいた。

「やあ、苗木くん。こんばんは。」
「うん……こんばんは。」

件の少年、苗木誠は秋原に挨拶を返し、少しだけ微笑んだ。

「どうしたの?こんな時間に。」
「ああ、うん……ちょっと、小腹が空いて。夜時間になる前に、食堂に行っておこうかなって。苗木くんは?」
「ボクは散歩かな。じっとしてると、変なことばっかり考えちゃって。」

あはは、と明るく笑うが、その顔には確かに微かな疲労が浮かんでいた。周りに人一倍気を使う彼のことだから、きっと上手く隠しているつもりなのだろう。だから敢えて指摘はせず、そうかと頷いておく。

変なこと――というのは、この間のことだろうか。

「じゃあ、俺とお茶でもどう?……って言っても、あともう1時間くらいしかないけど。」
「え、」
「いや……かな。」
「ううん!イヤじゃないよ。ただ、秋原クンが誘ってくれるなんて、ちょっと意外で。」
「そうかな……まあ、確かに、そうかも。で、どう?」
「もちろん!秋原クンがいいなら、一緒に休憩させてもらおうかな。」
「よかった、行こっか!」
「うん、行こう!」

内心でガッツポーズを決めながら、秋原は苗木と並んで食堂へ入る。さすがに夜時間間際ということもあり、食堂はがらんとしていて誰もいなかった。2人きりという事実にドギマギしないようにこっそり深呼吸して、苗木には先に席に座っているよう促す。

秋原だけに用意させるのは悪い、と渋る苗木をなんとか言いくるめ、厨房へ入る。ちらりと目をやると、壁にかかった包丁は相変わらず1本欠けたままだった。それに胸を締め付けられながら、冷蔵庫を開ける。適当な缶ジュースを2本と箱入りクッキーを取り出して、こんどは視線を出口から外さずその場を離れた。

「お待たせ。オレンジとりんご、どっちがいい?」
「秋原クンが飲まない方でいいよ。」
「……そう?じゃ、はい。」
「ありがとう。」

オレンジの方を渡し、秋原も席についた。プルタブに指を引っ掛けて缶を開け、冷えたジュースを喉に流し込む。甘ったるい糖分が少しずつ、胸を軽くしてくれるような気がした。苗木も同じように感じているのか、力が抜けたような表情を浮かべる。箱を開けてクッキーをひと口かじり、空腹が徐々に満たされていくのを感じてほうっと息を吐いた。

「ありがとう、秋原クン。」
「ん?何が?」

流し気味にお礼を言われ、先ほどのジュースを持ってきてくれたことに対するのとは少し違うニュアンスの「ありがとう」に秋原は首をかしげる。そんな秋原に苗木は目を細め、口を開いた。

「さっき、ボクも一緒に厨房に入ろうとした時止めたのは、気を使ってくれたんだよね。」
「え!?えっ、と……それは……。」
「やっぱり、そうだったんだ。」

図星を突かれてしどろもどろになる秋原に苗木は嬉しそうに笑い、ジュースの缶を両手で包み込む。

歯抜けになった包丁。

あれを、今の苗木に見せるのは酷だと思ったから。舞園さやか殺人事件のことを連想させるのは、彼の傷を抉ってしまうかと思ったから。

だから厨房に入れず待っていてもらったというのに、彼は変なところで洞察力が鋭い。つい一昨日の学級裁判で見事クロを言い当てたときも、同じようだったのを思い出す。

「大丈夫だよ、ボクは全部引きずっていくって決めたんだから。」
「……。」
「舞園さんの死から、目を背けたりしない。」

以前、霧切に向けて言っていたのと同じ言葉を繰り返す苗木。真っ直ぐな目に、吸い込まれそうになる。才能は“ただの運”、平凡を絵に描いたような凡人なのに、こうして向かい合っていると時々それを忘れそうになる。

仲良くしていた舞園に裏切られる形で彼女を亡くし、その現実を叩きつけられても果敢に真実に立ち向かっていた彼を、ただの幸運で片付けていいものだろうか。

「強いな、苗木くんは。」
「え?そ、そうかな?」
「強いよ。すごく強い。」

普通なら、ここで折れていてもおかしくない。まして、ついこの間まで一般家庭の子供だった少年だ。こんな絶望的な状況に慣れているわけでもあるまいし。

強くて、眩しい。今度は秋原が目を細め、クッキーを噛み砕くふりをして唇を軽く噛んだ。

「強くなんてないよ。ただ、前向きなのが、ボクの唯一の取り柄なんだ。」
「そっか……うん、なるほどね。」

頷いて、またジュースを口に含む。このコロシアイ学園生活では、その取り柄は何よりも頼りになるものだと思いながら。もう殺し合いなんてまっぴらゴメンだけれど。

ちょうど残りを飲み干したところで、チャイムが鳴り響く。慌てて立ち上がると苗木は飲み残しがあったようで、缶を持ったまま席を立った。

「クッキーは分けようか」と律儀にも言い出す苗木に、軽く吹き出して「そうだな」と返す。彼といると落ち着く、希望が湧いてくるような気がする。今度はもう少し早い時間に部屋を出てみようかと考えながら食堂を後にした。

宿舎の扉の前でじゃあねと手を振った苗木を、秋原は呼び止める。

「あのさ、苗木くん。」
「うん?」
「俺もさ、前向きに考えるようにしてみるよ。色んなこと。」
「!……うん、秋原クンならきっと出来るよ!」
「あはは、ありがと。おやすみ。」
「うん!おやすみ。」

別れ際、そんな会話を交わして手を振り、秋原も自室へ向かう。鍵を開け室内に入り、そのまま描きかけだったスケッチブックを手に取った。鉛筆を削り鋭く尖らせ、机に向かう。

チャイムが鳴ってモノクマが「おやすみなさい」と告げてくるが、知ったことかと無視をする。今しか描けない気がしたのだ。彼と話して希望と気力の湧いた今でなら、ずっと苦戦しているこの絵も完成できる気がしたのだ。

つい1時間前に手を止めた箇所に先を合わせ、線を引く。紙と鉛筆の触れ合う音以外、自分の呼吸音すら聞こえなくなる。最悪徹夜になるかもしれないが、そんなことは些細なことだった。

いつでも前を向く彼を、出来うる限りの力で写し取りたかった。



描きかけだった秋原のスケッチブックに、希望に満ちた瞳を携える苗木誠の似顔絵が完成するのは、もう少し先のお話。

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