桜になりたい

春のやわらかな風に乗って、酒盃の中にふわりと薄紅色の花びらが一枚おちる。そのちょうど半分くらいまで注がれた酒の上を漂う花びらは、まるで湖面に浮かぶ小さな舟のようであった。落ちてきた薄紅色を、酒盃を手にしていた男はじっと見つめた。その花は今まで春がくるたびに何度も見てきたが、この日は間近で見たためか、よりいっそう美しく見えた。

「きれいだ」

酒盃を手にしていた男、斎藤義龍は呟く。
数年前、長良川で実父を討った過去を持つ美濃国の主であるが、この年になってから頻繁に体調を崩し、医者からも余命幾ばくもないとされている。
もちろん、医者や家臣から酒をかたく禁じられているが義龍はきかず、こうして人目を忍んでは酒を嗜んでいる。この時間が、義龍にとってはなによりも幸せだった。
どうせもうじき終わる人生だ。最後くらい思いきり楽しみたい。そんなことをおもいながら、傍らにあった徳利に手をのばした。
だが、先ほどまであったはずのそれに触れることができない。義龍は視線を横へむけた。そこに徳利はなかった。

「このようなところで、なにをされているのですか」

声のする方へ、おもむろに顔をむける。そこに立っていたのは金山城主をつとめる叔父、長井道利であった。徳利は道利の手にしっかりと手に握られている。

「お、叔父上。どうしてここに」
「近ごろ、義龍さまが体調を崩されていると聞いたので」
「く、崩してなどおらぬぞ。ほら、このとおりだ」

ゆっくりと立ち上がり、義龍は徳利を返せとでも言うかのように両腕をのばして道利に歩み寄る。その足どりはふらつき、いつ転んでもおかしくないとおもった。
そして案の定、三歩進んだところで体勢を大きく崩し、義龍は前のめりになって倒れた。幸い道利が支えたため、けがはしなかったが。
だが、なぜか義龍の体は小刻みに震えていた。転倒の際にこわい思いでもしたのだろうか。その顔を見ると義龍の頬をいくつもの涙が伝っていた。

「叔父上、オレは悔しいんだ。まだ成さねばならぬことがたくさんあるというのに、このような体になってしまったことが」
「……」
「尾張勢との決着もつけたい。喜太郎の元服も待ち遠しい。それなのに、それなのに」

涙をぽろぽろと流す甥に、道利はなにも言えなかった。
美濃の大蛇とよばれるこの男は、これまでいかなるときも人前で泣いたことなどなかった。自らの謀によって弟二人が死んだときも。長良川で父を討ったときも。
それを見ていた者たちは「あの方は血も涙もない。鬼の化身に違いない」と噂した。
だが、道利はそうは思わなかった。義龍さまは忍耐強いのだと思った。
蝮とよばれた男、道三の子として生を受けたが次第にその愛情は腹違いの弟たちに注がれ、父からは無能と評されるようになった。それでも義龍はいつも気丈に振る舞っていた。いつか愛してもらえる日がくる。そう信じていた。道利はそんな姿をずっと見てきたため、義龍を冷酷非道な男だとは思えなかったのである。
その義龍が今、自らの腕の中で泣いている。道利はそんな甥に泣くのをやめろとは言わなかった。むしろ、気が済むまで泣けばいいと思った。この方は今までずっと、泣くことを耐えていたのだから。

「泣きなされ。これまでこらえていた分も、すべて流してしまうのがよろしかろう」
「しかし……」
「ここには某と義龍さましかおりませぬ。このようなことも想定して、人払いも済ませておりますゆえ」

さすがは蝮と呼ばれた男の弟だけはある。義龍は長良川の戦い後、しばらく道利を遠ざけていたがこの日再びその叔父に心を開き、腕に抱かれて思いきり泣いた。そんなとき、義龍の頬を春風がふわりと撫でた。その瞬間、義龍の涙がピタリととまった。

「いかがなさいましたか」
「叔父上は生まれ変わるとしたら、何になりたいかな」
「考えたこともござらぬ」
「そうか……」

オレはな、と呟いて義龍が目を向けたのは春風に花びらを舞わせる庭の桜の大木であった。

「桜になりたい。嫌なことがあったら、それを風にのせて花びらとして飛ばせるように。そして、毎年人々を喜ばせることができるように」
「されど、桜は儚いものにございます。花を咲かせてもすぐに散ってしまいまする」
「それでよい。桜の花は散るときも美しいからな。生まれ変わったらなれるだろうか、あの綺麗な桜に」

道利は何もいわずに頷いた。それを見た義龍が満面に笑みを浮かべた。たとえそれが叶わぬ願いだとしても、義龍は嬉しかった。道利はこの日初めて義龍の泣き顔と満面の笑みを見た。きっとこれが最後に違いない、と思いながら。
それから間もなくして義龍危篤の知らせを受けた。急いで井ノ口へ駆けつけたが、すでに彼は事切れていた。35年という短い人生だったが、義龍の死に顔は美しく、そしてとても幸せそうであった。

2014.6.12 了
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