確信したのはついさっき 十助には刹那、なにがおこっているのかわからなかった。 目の前に広がるのは、生々しく刀の跡が残った柱と倒れた男たち。鼻をつく血のにおい。あとは夜の闇にかき消され、なにも見えない。どういうことだと十助は思った。 一刻ほど前、ここにきたときにはこんな状況ではなかった。城内が暗かったため、はっきりとは覚えていないが少なくとも今、自分が見ているようなものではなかったはずだ。主人の命で病気をしたというその弟の重矩の見舞いをした際、城内が騒がしいとは思った。 だが、久作から制止されたため、部屋の外へは出なかった。そのため、十助には城内で起こったできごとの顛末がわからない。 人に聞こうにも、周りに倒れている者たちはほとんどは既に息をしていない。 だが、ひとりだけわずかに呼吸をしている者がいた。横倒れになりながらも懸命に生きようとしているその男に十助は見覚えがあった。すぐさま駆け寄り、その体に触れた。 「飛騨守どのっ」 「ああ、十助どの。おれの十助どのだ」 「なにがあったのです。いったい、なぜ」 顛末を聞こうと思ったが飛騨守の肩を見た瞬間、十助は絶句した。飛騨守の左肩から胸にかけて、大きな傷があった。このような傷を負って、よく生きていられたものだと思った。 「十助どの、これはね」 「なにも話さないでください。傷が開きますよ」 飛騨守はなにかを伝えようとしたが、十助はすぐさまそれを遮った。よく見ると、額から左の頬にかけてにも斬られたあとがあった。だが、幸いなことにこちらからの出血は少ない。 「ごめんなさい。それがしがもっと早く駆けつけていれば、こんなことには」 「十助どののせいじゃないよ。これはおれの業だ。そなたのご主人にあんなことをしたんだ。当然の報いでしょ」 痛みをこらえながら、飛騨守は笑った。 飛騨守が口をひらくたび、肩にある傷からもじわりと血がにじみ、やがて十助の服にもすこしついた。飛騨守は笑ってはいたが、その表情はやはり苦しげであった。 「だから言ったでしょう。傷が開くから話さないで、って」 「ああ、そうだったね」 「飛騨守どの。あなたは死ぬことがこわくないのですか」 「こわくないよ。いずれ、こんな日がくることはわかってたし」 思わぬ返答に十助は目を丸くした。 死ぬことなんて、こわくない。この男はたしかにそう言った。十助は思わず飛騨守を抱きしめる腕に力をこめる。傷口から、またじわりと血が滲み出た。 「……ばか」 「えっ」 「飛騨守どのの、ばか。そんなことして本当に死んだときに、誰が悲しむと思ってるんですか」 それがしですよと十助がつぶやく。その瞳には大粒の涙が浮かんでいた。やがて、それはぽたりと落ちて血に染まった飛騨守の頬を流れた。 「おれだってあんなことしたくなかった。でも、あの人には逆らえないんだ」 あの人というのは、おそらく飛騨守の主君のことであろう。その男は飛騨守を大層気に入っていたようで、いつも近くにおいていた。 あくまで噂だが、夜番と称しては飛騨守を夜中に呼び出して、床の相手をさせていたこともあるという。 信じたくはないが、その噂は斎藤家の家中では有名な話である。斎藤家の若き当主は酒と女に溺れる一方で、側近にまで手を出していた。 十助はそれが悲しくてしかたなかった。自分の見ていないところで、愛しい人が他の男に弄ばれ犯されていることが。悲しみのあまり、十助の涙が瞳から溢れては次々と頬をつたう。 ついには声をあげて泣き始めた。 「十助どの、ごめんね。おれ、十助どののこと、大好きなのに泣かせてばかりで。ほんとに……ごめん」 十助が涙をこぼすたびに、飛騨守の顔や服に落ちていくため、頬や襟などがすこし濡れてしまった。 そんな十助とは反対に、飛騨守は瀕死の状態にもかかわらず、あいかわらず口元に微笑を浮かべている。この男は、やはり死を恐れていなかった。口を開けば傷が悪化するとわかっていながら、なおも話をしようとする。 「本当に、ばかな人」 「そうだね。おれはばかだよ。こんな状態になっても、まだ十助どのと話をしたいと思うんだもん」 「……」 「だけど、忘れないで。おれが最期の瞬間、自分の命以上に十助どのとの時間を大切に思っていたことを」 「飛騨守どのっ」 飛騨守は意識が薄れていくのを感じながらも、懸命に口を開いた。死はもう間近まできている。その前に、飛騨守は十助に伝えたいことがあるのだという。十助は飛騨守の口から発せられる小さな声に耳を傾けた。 「十助……どの」 「はい」 「最後になるけど、十助どのに……どうしても渡したいものがあるんだ」 そう言うと、飛騨守はわずかに左腕をあげた。 鮮血に染まった手首には、戦闘の最中でも傷つけないように守り抜いた腕輪があった。薄紅色と純白の小さな珠が連なった美しい腕輪。それを右手で差し出した。 「これを、そなたに遺そう」 「よろしいのですか。こんなにきれいな腕輪を、それがしなんかに」 「うん。それはいつか、十助どのに贈ろうと思ってたものだし」 「ありがとうございます、飛騨守どの」 嬉しいといって飛騨守の手から腕輪を受け取った十助は、再び一筋の涙を流した。 「十助どのは泣き虫だなあ。もう……泣かないでよ。おれ、最期には十助どのの笑顔が見たいんだよ」 「ごめんなさい。嬉しくて、つい」 右手の指でそっと涙をぬぐい、十助がにこりと笑う。 飛騨守はそれを見ると静かに瞼を閉じた。 「じゃあ、さきに逝ってるね」 「はい」 「いつか、十助どのがこの世にお別れするときはおれが迎えにいくよ。それまで、しばらく会えなくなるけど……それを左手につけて待ってて」 おれと同じように、と飛騨守は続けた。 それをつけている間は十助どのをずっと守ってあげる。十助はこくりと頷いた。それからほどなくして、十助に見守られながら飛騨守はその生涯を幕をおろした。十助は渡された腕輪をじっと見つめる。 「左手につけて…か」 十助は飛騨守と話している間は、ずっと隠していた左手の袖を捲った。その手首から下は、すでに失われていた。 飛騨守どの、ごめんなさい。それがしは最後にあなたに嘘をついてしまいました。黙っていましたが、実はそれがしは先ほど斬り合いをし、左手首から下を失ってしまったのです。だから、あなたと同じようには腕輪をつけられません。 息絶えた愛しい人の亡骸に語りかけるように、十助は心の中で呟いた。 十助が飛騨守に嘘をついたのは、言うまでもなく不安をいだかせたくなかったからである。この人には、よけいな心配などをせず、安らかに眠ってほしい。それが、自分が飛騨守にできる最後の気遣いだと思ったから。 冷たくなった頬をなで、十助は涙をこらえて微笑んだ。 さぞかし痛かったでしょう。苦しかったでしょう。でも、もう大丈夫ですよ。あちらの世には、争いごとなんてないから。それがしはまだ、そこには逝けないけれど…これからも、あなたを思って生きていきますよ。 亡骸のそばに腰をおろしたまま、十助は小さく口をひらいた。 ずっと、ずっと、だいすきでした。その言葉がようやく喉の奥から出てきたとき、十助は自分の本当の気持ちに気がついた。 今までにも、これが恋かもしれないと思うことはあった。しかし、確信はできなかった。竹中家の家老をつとめる者として、あるじを罵り侮辱する男に恋をしているなんて、信じたくなかったからである。 だが、さきほど、それを確信した。 それがしは飛騨守どのが好きだった。そのことに気がつくには、いかんせん遅すぎた。飛騨守どのは、あんなにそれがしを愛してくださったのに。愚かなものだ、と十助は思った。 ふと、遠くを見ればいつの間にか山の向こうに陽がのぼってきている。 十助が未明に稲葉山城内で起こったできごとの顛末を知ったのは、夜が明けて返り血を浴びたあるじと、その男に率いられた竹中勢と合流したあとであった。 2013.10.3 了 |