あまごい

外は霧雨。すでに二日間も続いている長雨であった。
城での執務を終え、屋敷に帰ってきたばかりの官兵衛は居間でごろりと横になった。畳が外の湿気で湿って、すこし寝心地がわるい。
しかし、官兵衛は体を起こそうとしなかった。
起きたいと思っても、体が疲れきっていて思うように動かせない。自覚はなかったが、知らず知らずのうちに疲労をためこんでいたようである。すこし体を休めよう。そう思い両方の瞼をつむった。

ゆっくり、ゆっくりと深い眠りにおちていく。しばらくすると、どこからともなく聞こえる懐かしい人の声。

「ははうえ、」

官兵衛は小さく母を呼んだ。
遠い昔に亡くした母は和歌が好きだった。官兵衛には、母が元気だったころの記憶がない。しかし、それでも母が他界する直前まで、その病床で母の和歌を聞いて覚えた。それがなにより楽しかった。

時間が経つにつれて歌はすこしずつ、はっきり聞こえるようになってきた。盆も近いので、はじめは母がこの世に戻ってきてくれたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。女性が出す声にしては少し低いのである。
官兵衛は気になって、おもむろに起き上がり声の主を探した。声の主は意外にも自分の近くにいた。

「半兵衛、か」

官兵衛の言葉に、半兵衛は目を大きく見開いた。そして嬉しそうに駆け寄り、いつものように腕にぎゅっと抱きつく。

「どうしたの」
「心配しちゃったよ。私が起きたときに、そこで横になってるんだもん。過労で倒れちゃったのかと思った」
「少し疲れてたから仮眠をとっていただけだよ」
「よかった……お疲れさま。ゆっくり休んでてね。私、今から夕餉の支度してくるから」
「もうそんな時間なのか」

半兵衛は頷き、にこりとほほえむ。

「今日は疲れてるだろうから、ちゃんと精のつくもの作っておかないとね」

精のつくもの、といわれて官兵衛は頬を真っ赤に染める。もちろん、半兵衛にはそんなつもりはなさそうなのだが、頭の中ではなにを考えているかわからない。立ち上がろうとした半兵衛の袂を引っ張り、官兵衛は首を横に振った。

「なあに」
「行かないで。そばにいて。某は今、半兵衛との時間を大切にしたいんだ」
「もう、官兵衛ったら。今日は甘えんぼさんだね」

くすくすと笑いながら、半兵衛は再び畳の上に腰をおろす。
正座をした半兵衛の膝に官兵衛が頭を乗せる。
女のようなやわらかさを持たぬ膝は、お世辞にも居心地がいいとは言えない。しかし、官兵衛は半兵衛に膝枕をしてもらっているとき、いつも幸せそうな顔をしている。この日はいちだんと、幸せそうに感じられた。

「半兵衛」
「んー?」
「そなたとこうして過ごしていると、今が戦乱の世だということを、つい忘れてしまいそうだ。まるで幼子のときのように、すごく……すごく幸せだよ」

半兵衛の腿に触れながら、官兵衛は静かに目を閉じた。
脳裏に浮かんだのは細身で華奢な女性。母の明石氏だった。思えば病に臥せる前の母もこうして膝枕をしてくれた記憶がある。そのときにかすかに感じ取った母のぬくもりを、官兵衛は覚えていた。

「似ているな」
「えっ」
「そなたと母上だ。このぬくもりも、その華奢な体も、そして、温厚な性格も。半兵衛に触れていると安心するのはこのためだったのかもしれないな」
「そんな、私は」

不意に官兵衛が瞼をあける。必然的に二人は見つめ合うかたちになる。半兵衛の鼓動が、一瞬だけ強くなった。目が合ったとき、官兵衛は小さくほほえんでいた。

「半兵衛。そなた、先ほど歌を口ずさんでいたであろう。雨乞いの歌を」
「な、なんで知ってるの」
「ずっと黙っていたけど、ちゃんと聞いていたんだ。そなたは歌が上手いのだな」

官兵衛の言葉に、半兵衛の頬がほんのりと桜色をおびる。その姿を、官兵衛はとても愛おしく思った。

「私、心配だったの。数日前に外を歩いたときに、この暑さと長引く干ばつで渇いた田畑を見て……あれでは作物をつくる人たちがかわいそうだと思ってね。
私にできることは、なんでもしようとおもうんだ」
「それで雨乞いを」
「うん」

民を思う半兵衛の気持ちが、ひしひしと官兵衛にも伝わってくる。
その思いが天にも届いたのか、二日のあいだ、雨はいっときもやむことなく降り続いている。だが、半兵衛はこれではまだ足りないという。干ばつに頭を痛めていた民を救うには、この程度では足りないといい、半兵衛は雨が降り続けることを祈っている。

しかし、それが半兵衛の本意ではないことを官兵衛は察していた。
きっと、本当は早く雨がやんで官兵衛と外を出歩くことを望んでいるに違いない。半兵衛は民を思うがゆえに、自分の感情を押し殺している。
官兵衛は、そんな半兵衛を見ているのがつらかった。少しでも半兵衛の力になりたい。
そう思うと、いてもたってもいられず身を起こした。

「半兵衛。某も手伝うよ」
「な、なにを」
「雨乞いを、だ。そなた一人に苦労はかけられぬ」
「でも、官兵衛は」
「もう大丈夫だよ。
そなたの膝で休ませてもらったら、力がわいてきたからな」

左手で半兵衛の頬をなでる。その頬が、ふたたび桜色に染まる。官兵衛の口角がわずかにあがった。

「官兵衛。この雨乞いが成功したらさ、」
「わかってるよ。そなたの望みをなんでも叶えてあげよう」
「……嬉しいな。ありがと」

頬を触れる官兵衛の左手の甲に、半兵衛もそっと手を重ねる。それから、ふたつの唇が合わさるまで少しも時間はかからなかった。

2013.9.11 了
[前へ] [次へ]



- ナノ -