さいごのひ

急用ができたから、しばらく竹中の屋敷に戻ることにした。そんな置き手紙をして、半兵衛が普段暮らしている官兵衛の屋敷から姿を消したのは、ひと月前のことであった。
その日、官兵衛はちょうど出仕の日で朝早くから夕刻まで城で執務をしていた。置き手紙を発見したのは、城から帰って文机に目をやったときである。半兵衛の性格上、用事が済めばすぐさま、こちらに戻ってくるだろう。官兵衛はとくに心配もせずに、その帰りを待った。

だが、二日経っても三日経っても半兵衛は戻らない。気がつけば、半月が過ぎていた。これはおかしい。官兵衛はさすがに不審に思い、半兵衛と古い仲である前野長康のもとをたずねた。長康に半兵衛の近況などを聞こうと思ったのである。むろん、長康がなにもかも知っているとは思えないため、期待はしていなかったが。それでも官兵衛は長康に事情をすべて話した。

「半兵衛のことで、なにか知っているようであれば教えていただきたいのですが」
「そうですねぇ。では、半兵衛どのがふた月ほど前に、ここへいらっしゃった際に言っていたことでもお話ししましょうか」
「よろしくお願いします」

長康は淡々とした口調で話をはじめた。
その話によれば前野邸をおとずれた半兵衛は長康と二人きりで碁をうっているときに突然、

「私は近いうちに官兵衛のもとを去ることにします」

と、わけのわからないことを口にしたという。
その言葉を聞いた長康は、はじめは官兵衛との間でいさかいでもあったのだろうと思った。だが、半兵衛が官兵衛のもとを去ることを決めたのは、そのような単純なことがきっかけではなかった。

実は半兵衛はこのころから、頻繁に体調を崩していたのである。
それも、風邪のような軽い病ではない。夕方になると、少しだるさを感じたり熱が出ると言った。咳や寝汗も出るらしい。それを聞いても医術に疎い長康には、どこが悪いのか見当もつかなかった。
だが、おそらく半兵衛はすでに病名も病状も、余命も悟っていたのであろう。重病を患った体で黒田家にいては、官兵衛に迷惑をかけてしまう。そのため、半兵衛はこっそりと屋敷を出ていった。
長康の見解はそんなところだった。

「急用ができたなどというのは、おおかた偽りでございましょう。具合が悪いといえば官兵衛どのに不安な思いをさせてしまうため、あえてそのように書き残したのではないでしょうか」
「なるほど。貴重な情報とご意見、痛み入りまする」
「それで、このあとはいかがなさるおつもりか」
「真偽はさだかではございませんが一度、半兵衛の屋敷に赴いて確かめようかと」
「それがよろしいでしょう」

半兵衛に関する情報を得た官兵衛は、長康に別れを告げて前野邸をあとにすると、その足で竹中邸を目指した。官兵衛には、このとき推測ができていた。半兵衛が労咳とよばれる死病を患っていることを。
むかし、医術の知識を得るべく紐解いた書物にかかれていた症状のひとつひとつを思い出したところ、長康のいっていたものと一致していた。この推測が正しければ、半兵衛は今ごろ衰弱し床に臥せっているであろう。官兵衛は少し足を速めた。
半兵衛の屋敷についたのは昼下がりだった。門をくぐり中へ入れてもらうと、そこで偶然にも半兵衛の弟、久作と出会った。

「官兵衛どのではございませぬか。珍しいですな。貴殿がここへいらっしゃるなんて」
「ええ。ちと、用がありまして」
「どんなご用ですかな」

官兵衛は屋敷をおとずれた理由を、隠さず正直にいった。それを聞いた久作は、やや困った顔をした。

「兄のもとに行かれるのは構いません。ですが、会うことができるかどうか」
「どういう意味です」
「官兵衛どのにお伝えできませんでしたが、兄は病に臥せっていまして。なにしろ、人にうつるらしいので我ら家族や一族でも入室を禁じられておりまする。そんな兄が、最も大切に思っている貴殿を室内に入れてくださるでしょうか」

言われてみれば、その通りである。心から愛する人に会いたいと言われても、労咳を患っている者はそれを拒むだろう。大切な人だからこそ、死病に蝕まれ弱った姿を見せたくない。病をうつしたくないとも思う。半兵衛の場合は官兵衛を想う気持ちが強いため、なおさらのことである。

「拒まれる可能性は十分にあります。それでも行きますか」
「はい。参ります」
「かしこまりました。では、ご案内いたしましょう。兄のもとへ」

久作のあとについて、薄暗い廊下を進んでいくと最奥に部屋が一つあった。そこは竹中の人間ですら、めったに足を運ばないという静かな場所だった。久作はここが兄の居場所ですと言うと、中にいる半兵衛に声をかけた。

「兄上、起きてらっしゃいますか。久作でございます」
「なんの用?」
「お客様がみえておりまする」
「こんな私に、客なんて」
「いるよ。ここに」

半兵衛は耳を疑った。そして、ゆっくりと体を起こした。

「その声は」
「久しぶりだね、半兵衛。そなたとこうして話すのも」
「官兵衛っ!」

愛しい人の声を聞いた途端、それまで募らせていた思いがおさえきれなくなった。会いたい。触れたい。襖に近づき、必死で開けようと手をのばした。だが、以前のように触れることができないと思うと悲しくなり、布団の中に戻った。

「半兵衛、どうしたんだ」
「ごめん。やっぱり、会えないよ。私のこんな姿を、官兵衛に見てほしくない。帰ってくれないかな」

その体に、今すぐ抱きつきたい。くちづけもしたい。頭をなでてもらいたい。しかし、それは許されぬ行為であった。労咳にかかった以上は極力、人に接してはいけないのである。それが半兵衛には、悲しくてつらくてしかたがなかった。

「予想していたとおりの返答ですね。どうしますか。このまま、帰られますか」
「いいえ。もう少し話を続けてみます。久作どの、ここまでかたじけのうございました」
去りゆく久作に礼をいうと、官兵衛は半兵衛との話を続けた。
半兵衛は案の定、労咳を患っていた。しかも、病はすでに末期である。そのため、半兵衛が会うことを拒むのもわかる。けれど、官兵衛は諦めきれない。
襖のむこうで死を待つ恋人を少しでも元気づけたい。
そんな思いで許しを得ず襖を開き、半兵衛の枕頭に寄った。

「入っていいなんて、ひとことも言ってないんだけど」

体を横たえ、背をむけたまま半兵衛はつぶやく。

「でも、嬉しい。ずっと信じてたよ。ここにきてくれることを」

やつれた頬に触れると、思わず涙が出そうになった。半兵衛は思っていた以上に弱っていた。
その体に各地を転戦していたころのおもかげは、もはや微塵も残っていない。半年ほど前までの明るくはつらつとしたした姿が、まるで嘘のようであった。

「話は前野どのから聞いている。急用ができたのではなく、病のため屋敷を出たんだね」
「そうだよ。だけど、だますつもりはなかったんだ」
「ああ、わかってる。すべては某を思っての行動だったんだろ。でも、出て行かなくてもよかったんだよ。風邪だろうが労咳だろうが、半兵衛が具合を悪くしているなら某が看病するから」

優しい言葉をかけてくれた官兵衛に、半兵衛は懸命に起き上がって抱きついた。許されぬ行為とわかっていても、半兵衛にはこれ以上、我慢ができない。その瞳からは幾度も涙が流れ落ちた。

「官兵衛。私、ほんとは怖かったんだ。こんな暗くて寂しいところで、治る見込みもない病と闘って死を迎えるのが。けど、今はようやく安心できた。官兵衛のおかげだよ」

半兵衛はニコッと笑ったが、瞬時に表情をかえた。
胸の奥で痙攣が起きたの覚え、やがて激しく咳き込んだ。久しぶりの発作であった。激しい咳に苦しみながらも、口を押さえた両手をはなすまいと思った。

労咳は咳を介して感染するという。
この手をはなせば、愛しい人に死病がうつる可能性がある。それだけは、絶対にあってほしくなかった。苦しむのは私ひとりで十分だ。この人にまで、つらい思いはさせたくない。短い発作の最中、半兵衛は自分の体よりも官兵衛の体を案じた。
そして、気がつくと咳も息苦しさもおさまっていた。官兵衛は発作の間、絶えず背中をさすっていてくれたようであった。

「おさまったみたいだね」

半兵衛はうなずいた。だが、その両手は思ったとおり、赤く染まっていた。

「また悪くなっていたようだな」
「うん。突然だったから、自分でもちょっと驚いちゃった。ごめんね。こんなとこ見せちゃって」
「平気だよ」

よごれてしまった半兵衛の口元や手のひらを、官兵衛は丁寧に拭き取る。日ごろから医術を学んでいるためなのだろうか。年下ではあるが、このような状況でも冷静に対処できる官兵衛がこのとき、とても頼もしく感じられた。この人になら自分の亡き後の主君の補佐も任せられる。半兵衛はさらに安堵した表情をみせた。

「なにを考えているんだ」
「べつに、たいしたことじゃないよ。ただ、官兵衛はもう、私がいなくても生きていけるんじゃないかって思っただけ」
「そんなわけないだろ。半兵衛とは、その……まだまだやりたいこともあるし」
「ふふっ、冗談だよ。私が愛する人をおいて先に逝くような人間に見える?」

くすくすと笑いながら冗談を言ってのけたが、それもつかの間であった。やがて、半兵衛の意識は遠のき、官兵衛の腕の中に倒れ込んだ。

「は、半兵衛っ」
「どうやら、私の体はもう限界みたいだね。あとは任せたよ。官兵衛……だいすき、だよ……」

それが半兵衛の最期の言葉だった。そのあとは、揺すっても声をかけても反応がない。官兵衛はあわてて人を呼ぼうとしたが、もはや手遅れだった。
愛する人の腕に抱かれ、半兵衛は眠りについたような安らかな表情で既に事切れていた。

2013.6.14 了
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