花の匂い

初冬の早朝。
斎藤龍興の側近、斎藤飛騨守は前日の疲れがとれず、寝不足のまま出仕した。
ふあ、とあくびを一つすると吐息が白くなった。
寒い。このような日には城などに行かず、屋敷でのんびりと過ごしていたいものである。しかし、どんなに暑くても寒くても、仕事上は城に行かなければならない。

城番。城を警固し、主君を守る。それがこの男の仕事だからだ。人一倍寒がりな自分には、正直とても向いているとは思えない。だが、いまさら龍興に言うことはできない。言ってしまえば、側近といえどもただではすまないだろう。龍興の性格のことである。
命は助けられても、斎藤家の武士という地位は失うに違いない。追放は目にみえている。飛騨守はあくびに続いて、ため息をつき城門をくぐった。

そのとき、ふと足を止めた。止めたというより止まったのであった。
やわらかな芳香が辺りに漂っている。それはまるで、春をむかえて色とりどりの花々が、いっせいに蕾を開いたときのような甘い香りだった。春ならそれもわかるのだが、季節はまだ冬がはじまったばかりである。このような寒空の下で、咲いている花など見当たらない。

「妙だな」

不思議に思いながらも、また歩き出した。
すると、今度は人影が見えた。
すこし霧がかかっているため、はじめ顔がわからなかったが、近づくにつれてはっきりしてきた。
相手もこちらに気がついたようで、目が合うと会釈をした。
きれいだ。飛騨守はまずそう思った。そして、すれ違う際に先ほどの香りがした。ふわりと甘い花のような匂い。
いつの間にか胸の鼓動が、強く脈打っていた。飛騨守はしばらくその場に立ちつくした。
やがて我にかえり、振り返ったがその人の姿はもう見えなくなっていた。

また、会えないだろうか。気がついたときには、そんな思いを胸にいだいていた。
明くる日も、早朝に屋敷を出て城へむかった。飛騨守の思いが天に通じたのか、その人はまた向かい側から歩いてきた。
今日こそは話しかけねば。心を落ち着かせ、そのときを待つ。そして、すれ違った瞬間に勇気を出して声をかけた。

「あ、あの、」

振り向いた顔はやはりきれいだった。美人というよりは可愛い。つややかな紫の長い髪から、きのうと同じ甘い香りがする。

「覚えていますか。きのうの朝も、ここですれ違ったこと」
「ええ。ああ、貴殿はあのときの」
「そうです。また、お会いできてよかった」

再会できたことに、飛騨守の顔に自然と笑みが浮かぶ。話をしていると、その人もときどきにこりとほほえむ。それがまた、愛らしい。
二人は出会って二日目にして意気投合し、会話もはずんだ。だが、出仕の時間がせまるにつれて、別れなければならないと悟った。
久しぶりに、こんなにも笑顔になれたのに。
しかし、現実は残酷に別れのときをつげる。

「明日も会ってくださいますか」
「もちろんです」

そういって、この日は別れようとした。
だが、晴れていた空に急に暗い雲が出たかと思うと、まもなく大雨を降らせた。飛騨守はいそいでその人を、近くの建物の下へつれていった。
びしょ濡れになったその人の体を、無意識のうちに抱きしめていた。しかし、そこで気がついた。その人には女のようなやわらかさはない。男だ、と飛騨守は思った。さらに驚いたことに、このとき初めて知ったのである。
この男が竹中家の家臣、喜多村十助だということを。
信じがたいことだが、よく見れば優しげな瞳やおとなしい性格は、主君の竹中半兵衛とどこか似ている。
だが、相手が大嫌いな竹中家の人間であっても飛騨守は、もはや思いを抑えきることができない。

「十助どの。おれはそなたが好きです。初めて会ったあの日から、ずっと」
「い、嫌です。やめてください飛騨守どの」
「十助どの、もう我慢できませぬ。お許しくだされ」

嫌がる十助の唇を奪い、強引に口内に侵入する。はじめはいやがってばかりの十助だったが、徐々に抵抗しなくなり、やがておとなしくなった。

「いやだったではなかったのですか」
「最初は驚いたんです。飛騨守どのが、それがしを好きだなんて思わなくて。貴殿は大の竹中嫌いですから」
「たしかに、おれは竹中の人間がみな嫌いです。いつも愛想のない半兵衛や、見かけによらず攻撃的な善左衛門はどうしても好きになれませぬ。しかし、そなただけは違います」

離した唇を耳元に近づけると、十助はすこし吐息がかかっただけで顔を真っ赤にした。

「そなたは、とても純粋で素直です。おれはそなたの、そのようなところが好きになったのです」
「飛騨守どの」
「十助どの、愛してます。おれのものになってください」

十助は困ったようなに笑い、首を横に振った。

「お気持ちは嬉しいですが、それはできませぬ。
いくら飛騨守どのがそれがしを好いてくださっても、それがしは竹中に仕える身です。貴殿のもとへいくわけにはまいりません」
「やはり、そうですか。ならば、もう一度だけ」

再び唇を重ねた。このときは、十助は拒まなかった。
飛騨守との別れを惜しむかのように、その体を抱きしめてひと筋の涙を流した。

数ヶ月後。
十助のあるじ、半兵衛が稲葉山城を乗っ取るという出来事が起きた。
皮肉なことに、この日の宿直は飛騨守であった。これよりすこし前、飛騨守は半兵衛を辱めたため、半兵衛にうらまれていた。
城に入られるやいなや、飛騨守は半兵衛から一太刀あびた。ほぼ即死だろうと判断した竹中勢は、飛騨守が倒れたのを見ることなく足早に奥へ進んだ。
だが、十助だけは戻ってきた。そして、生きているのが不思議なくらいの重傷を負った飛騨守のそばに、腰をおろした。

「飛騨守どの」
「十助どの、か」
「申し訳ございません。このような事態になるとは思わず、あるじをとめることもできませんでした」
「よいのです。そなたは悪くない。すべては、おれが」
「なにも話さないでください。いま、手当てをしますから」
「十助どの」
「は、はいっ」
「おれにかまわず、奥に進んでください。半兵衛はそなたを必要としている」
「しかし、このままでは」

飛騨守はにこりと笑った。

「この傷では手当てしても助からぬ。十助どの、最期のお願いです」

赤く染まった手で腰に差していた鎧通しを渡した。

「これで……とどめを」
「そ、そのようなことなど、できません」

十助は大粒の涙をこぼしたが、飛騨守はそれでも鎧通しを十助の手に持たせた。

「愛しいそなたにとどめを刺されて逝けるのなら、おれはしあわせです。短い間だったが、そなたに出会えてよかった。ありがとう」

それが最期の言葉だった。
涙を流しながら十助は、飛騨守の喉に鎧通しを刺した。呼吸がとまった。飛騨守は十助の手によって、その生涯に幕をおろしたのであった。

十助はみずからの手で愛した男にとどめを刺したことを、その日から一度も忘れることはなかった。
月命日がくるたびに、飛騨守のことを思い出しては心の中で問いかける。会いたいです。また、どこかでお会いできますか。返ってくる言葉はないけれど、それでも十助は飛騨守を思い続けた。
いつか、黄泉での再会を信じて。

2013.2.10 了
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