幸福な最期

「雨は、まだやまぬか」

狭く冷たい岩穴の中で、居眠りをしていた秀吉は急に起きるやいなや、そんなことを言った。
入り口の近くに腰をおろしていた官兵衛は、穴の外に顔を出して空を見上げた。外は雨が降っていた。霧のような細かい雨が、しとしとと。
官兵衛はその様子を秀吉に伝えた。

「そうか。すまないな、官兵衛。疲れているときに、このようなことを聞いてしまって」
「いえいえ。某のことはお気遣いなく。それよりも、これから先のことを考えねばなりませぬ」
「ああ、そうだな」

秀吉は軽くうなずいた。
官兵衛の意見はもっともなものであった。ふたりは前日に久方ぶりの手痛い敗北を味わい、闇夜の中をひたすら駆けた。そして、この場所にたどり着いたのである。実にひどい負け戦だった。
はじめから劣勢ではあったが、兵力は僅差であったため油断した。思えば、それがいけなかった。そのすきをつかれてしまった結果、味方は総崩れになった。部隊の壊滅も相次いだ。
現在は状況を報告する者がいないため、算を乱して敗走した家臣たちの生死も敵の動きも、まったく明らかでない。そのため、二人はなにも知ることができない。ただ、この場所で息をひそめているだけなのである。

官兵衛は今の状況を、なんとしても打開せねばなるまいと思った。いくら人目につきにくい岩穴とはいえ、絶対に安全とは言いきれない。自分たちのような敗軍の将を追って、敵が近くまでくるかもしれない。
その上、大将が潜んでいることを知れば、彼らは血眼になり昼夜の関係なく探し回るだろう。

もし、発見されれば自分は助かる可能性もあるが、隣にいる主君には絶望的な運命しか待ってない。そうなる前に、官兵衛は秀吉をどこか遠い場所へ逃がそうと考えた。すでに城は占拠されているおそれがあるため、領地には帰れない。
それならば、縁もゆかりもない地に行ってもらうしかない。さすがに秀吉の縁などは、官兵衛も詳しいことまではわからない。そのあたりは本人に任せることにした。

「秀吉さま。ひとつ、お願いしたいことがございます」
「なんだ」
「この雨が、あと少しだけ弱まったら」

官兵衛は悲しげにほほえんだ。

「某をここに残して、どこか遠くの知らない地へお逃げください」
「なにを言う」
「秀吉さまが隠れていることを敵方が知れば、お命が危のうございます。それゆえ、某を身代わりにして逃げてほしいのです」
「そんなこと、わしにはできぬ」

秀吉の脳裏に、夭折した男の顔が思い浮かんだ。不治の病に冒されても、ずっとにこやかな笑みを浮かべていた天才軍師の顔であった。

「そなたは半兵衛に代わって、わしを支えてきてくれた大事な家臣じゃ。身代わりになど…できるものか」
「その半兵衛に某は約束したのです。秀吉さまを支えること。そしてこの命にかえても守り抜くことを。だから……」

お願いします、といって官兵衛は頭を下げた。

「わかったよ。この雨が弱まったら、ここを出るとしよう。わしがいなくなったら、官兵衛も敵に見つからぬように逃げるのだぞ。よいな」
「承りました」

半刻ほど経って雨はわずかに弱まった。
それを見た秀吉が岩穴から出ると、

「今までいろいろと助けてもらって、本当に嬉しかった。生きていたら、また会おう。そなたの無事を祈る。達者でな」

と言い残して東の方角へ走っていった。
官兵衛は、主君の姿が森の中に消えるまで見送った。

「無事を祈る、か」

なんとお優しい言葉を残してくださったのだと官兵衛は思い、岩穴の中でひとり泣いた。逃げろとはいわれたが、このとき、すでに官兵衛には逃げるつもりも隠れるつもりもなかった。
陣中こそ我が死すべきところなり。亡き友が遺したという言葉を、官兵衛は思い出した。その心に迷いはなかった。
やがて、夜明けが近づいてきたころに敵の大軍が岩穴に来襲した。主君の身代わりとなった軍師は、この地で敢然と戦い散っていった。友との約束を守り、主君のためにみずからを犠牲にした男の死に顔は、まことに穏やかなものであった。

2012.9.2 了
[前へ] [次へ]



- ナノ -