おかえり。

しとねも敷かず、ごろりと横になっていた午後。
体の上に感じたのは、懐かしい人の気配と重みであった。少し汗ばむようになった初夏のことである。
このようなことは初めてではないとはいえ、やはり寝苦しい。長政は上に乗っている者を退けようとして、わずかに体を動かした。そのため上の人物は、体勢を崩し短く声をあげた。男の声だった。
長政はそれに、聞き覚えがあった。
幼いころから毎日、いやというほど聞いてきた声。嫌いだったあの男の声だった。

「まだ陽が高いというのに忍び込んでくるとは、ずいぶんと積極的なのだな。又兵衛」
「おや、なにゆえわかったのですか」
「その声を聞けば、わかって当然だ」

そうですね、と言って又兵衛はくすりと微笑んだ。

「お久しぶりです。長政さま」
「ああ、久しいな。お前がこの家を出て以来か」
「はい。もう十年になります」
「十年か。長かったな」

長政はおもむろに起き上がり、又兵衛と対面した。久しく見ていなかったが、その顔はすこしも変わってなかった。

「あのときは、すまなかったな」
「奉公構のことですか」
「そうだ。おれがあんなことをしたばかりに、お前に苦労させてしまって。しかし、なにゆえすぐに戻ってこなかった」
「奉公構をうけた身で、主君の命に背くわけにはいきませんから」

主君といわれたことに長政は驚いた。
これまで、この男から主君として見られたことはなかった。それは家督を継いでからも変わらなかった。この男が主君と定めていたのはずっと父の如水だ。少なくとも長政はそのように感じていた。
年下であるためか、当主となったあともわらべのように扱われた。長政には、それがはなはだ不愉快だった。
そんな又兵衛が長政を主君といった理由は、実に簡単である。
この男には、もはや他に主君と呼べる人間が存在しない。如水は十二年前に他界した。黒田家を出奔したあとに仕官した豊臣家も昨年、わずか二代で滅んだ。

又兵衛にとって自分は次に主君と定める人間があらわれるまでの、代用品のような存在なのかもしれない。
しかし、それでもいいと長政は思った。
居場所をなくした男に、つかの間でも心安らかな暮らせる居場所をつくってやれるのなら、おれはたとえ代用品でもかまわない。長政は、又兵衛を抱き寄せ唇を奪った。半ば強引ではあったが、又兵衛は長政のそれを拒まなかった。

「おかえり、又兵衛。よく戻ってきてくれたな」

長政は心底、嬉しかった。かつて、あれほど嫌っていたのが嘘のように思えるほどに。
その夜、又兵衛は長政の屋敷で一夜を過ごした。十年ぶりに触れた主君の体には、昔とかわらないぬくもりがあった。ぴたりと寄せた体を、長政が両腕でそっと抱いた。

「長政さま、」
「なにも言うな。今日だけは、昔のことなど忘れて二人きりで過ごしたい」

喧嘩ばかりしていた日々や自分が又兵衛にした仕打ちが、簡単に忘れるものでないということくらい、長政もわかっている。
しかし、こうして二人で過ごしているときだけは考えないでほしい。長政は又兵衛に懇願した。
又兵衛の困った顔を想像していたが、意外にもいたって冷静な態度であった。

「言われずとも、そうさせていただきます」
「なぜだ。おれは、又兵衛をあんなにひどい目にあわせた男だぞ。どうして、素直に従う」
「前に言いましたよね、おれ。過ぎたことにこだわるなって。それに、おれは長政さまのことが」

好きだからです、と又兵衛は言った。
この男にしては珍しく小声ではあったが、たしかにそう聞こえた。長政は又兵衛の言葉を聞き逃さなかった。

「ずいぶんと言うようになったのだな、お前」

気がつけば、又兵衛はしとねの上に倒されていた。
上から見下ろすようにして覆い被さる長政が、にやりと笑った。長政がこれから、なにをしようとしているかはわかっている。けれども又兵衛は抵抗しようとすらしなかった。

「どうぞ、好きにしてくだされ」

余裕をもった表情で言ってのけた。長政はそれに応じた。

2012.6.18 了
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