きずあと

半兵衛が妙に苦しげな表情をするようになったのは、梅雨のころのことだった。
苦しげな表情といっても、声をあげて痛がったり苦痛を訴えたりすることはないため、一見なんでもないようにもみえる。だが、半兵衛と接する機会の多い者は、やはり心配する。
とりわけ、官兵衛はそういうことに敏感だった。
なにしろ官兵衛の場合は、もっとも身近な存在である。
その上に半兵衛が病気やけがをしていなくても、常にその体を誰よりも気遣っている。
それだけに、近ごろの苦しげな表情が気になってしかたがなかった。

しかし、あえて本人には直接尋ねない。
そんなことを聞いても、こればかりは半兵衛も素直に言ってくれるとは思えない。かといって、このままほうっておくことはできない。大事な恋人のことなのである。官兵衛に、そのような無慈悲な行いができるはずなどなかった。
さて、どうしようかと考えながら外を見た。先ほどまで小降りだった雨はいつの間にか、ざあざあと音をたてて地面に降りそそいでいる。

「いよいよ本降りか。これはしばらく止みそうにないね。半兵衛」
「うん」

声が普段よりか細く聞こえた。
もともと大きな声は出ないため、物静かな口調であるが、このときはそれよりも小さな声だった。

「どうした。最近、様子がおかしいぞ。どこか具合でも悪いのか」
「ううん、なんともないよ」

半兵衛はにこりと笑ったが、心に秘めたつらさを隠すことはできなかった。
そして用事を思い出して、すっと立ち上がったときである。左足の腿に、我慢できぬほどの激しい痛みを覚えた。鋭い刀で切られたような、ずきずきとした痛み。それをこらえることができなくなり、半兵衛はとうとう腰をおろして左足をおさえた。痛みのためか、半兵衛の目から一筋の涙が流れて頬をつたった。

「足が痛むのだな」

半兵衛はこくりとうなずいた。

「そろそろ、本当のことを話してくれないか。半兵衛がひとりで苦しんでいるのをこれ以上、某は黙って見ていられないんだ」
「……」
「力になれることがあればなんでもするよ」
「じゃあ、どんなことを知っても平気なんだね」
「ああ、もちろんだ」

左足の痛みにたえながら、半兵衛は一呼吸おいて、ゆっくりと話しはじめた。

「まずはこれを見てほしい」

半兵衛は薄紅色の着物の裾をちらりとめくった。
ただでさえ短い裾が、さらに短くなり色が白くやわらかな肌があらわになった。その肌には純白の細長い布が巻かれ、なにかを隠しているようである。半兵衛はそれをほどいてみせた。すると、白い肌に鋭利なもので切りつけられたあとがあった。官兵衛は驚いてまばたきをした。

「こ、これは」
「むかし、刀で切られたんだ。私が斎藤家に仕えてたときに稲葉山城を乗っ取った話は、官兵衛も知ってるでしょ。そのときにね」

城内が暗かったため気がつかなかったが、騒動の最中に亡くなった龍興の側近から一太刀うけたらしい。
あとで痛みを感じて左足を見てみると、そのあたりは真っ赤に染まり袴がだめになってしまった。
秀吉に仕えるようになってからも、天気の悪い日に限って古傷が痛むようである。
それだけでなく、古傷がうずくたびにあの日のことと龍興にされた仕打ちの数々が脳裏に、パッとよみがえるのだから半兵衛の苦痛は尋常なものではない。苦しげな表情をするのはそのためだった。
話を聞いた官兵衛は思わず半兵衛を抱きしめた。

「つらかっただろ。でも、どうして今までこのことを言わなかったんだ。早いうちに言ってくれれば、こんなに苦しまなくてすんだはずなのに」
「知られたくなかったんだ、誰にも。私にこんな醜い傷跡があると知られたときの反応がこわくて」
「半兵衛……」

強く抱いたまま、官兵衛は心と体の深い傷に苦しむ恋人をそっと床に倒した。

「たしかに、これを見て態度をかえるひともいるかもしれない。でも、平気なひとだっている。半兵衛を本当に理解してくれているひとなら、きっとこの傷も受け入れてくれるよ」
「官兵衛も?」
「当然だ。はじめは驚いたけど、これも半兵衛の体の一部だと思えば」

愛せる。少なくとも某だけは。そう言って官兵衛は半兵衛の橙色の帯をといた。その体が、ぴくりと動いた。このとき、半兵衛はすでに察していた。これから行われることのすべてを。
しかし動揺せず、泰然とした状態を保ち続けた。
そんな半兵衛の体を、官兵衛は時間をかけて丁寧に愛撫した。愛しいひとに抱かれ、体が刺激を覚えるたびに半兵衛は深く甘美な悦楽をあじわった。

「官兵衛」
「ん?」
「私はいま、すごく嬉しいんだ。大好きなひとに、こんなに愛してもらえて。本当に、本当に……」

次のことばを言おうとしたが息が切れて、上手く話すことができない。喘ぐ半兵衛を見た官兵衛は、その体を起こし背中をさすった。

「もう、それ以上いわなくていい。言いたいことはだいたいわかったから。苦しいなら、無理をするな」

額にやさしく口づけをすると、半兵衛は穏やかな表情をみせて官兵衛の胸にもたれ込んだ。
官兵衛は眠っている半兵衛の着衣を正してから、しとねに寝かせた。
間近でみると、改めて整った顔立ちであることがわかる。
こんなにきれいなひとの心に、闇夜のように暗い過去の傷が今も残っているとは、正直考えがたいものである。官兵衛はすやすやと眠る恋人の隣に入り、静かに枕元の灯りを消した。

翌朝。官兵衛が目をさますと、すでに隣には半兵衛はいなかった。おもむろに起き上がると縁側の近くに、その姿を見つけることができた。

「半兵衛か」
「あっ、おはよう。よく眠れていたみたいだね」
「なにをしているんだ。こんなに早い時間から」
「これを繕っていたんだよ。雨を見ながら」

半兵衛が手にしていたのは、ところどころが破れた小袖だった。それを丹念に縫っていた。それは官兵衛が普段着用しているものである。

「某の小袖、縫ってくれているのか」
「そうだよ。あまり上手くはないけどね」
「いや、それだけきれいにできれば上出来だよ。ありがとう」
「私も官兵衛にお礼いわなきゃ。きのうの夜のこと」

半兵衛は手をとめて官兵衛をじっと見つめ、礼を言った。

「あのとき、私は昔のことも傷跡の痛みも忘れていたんだ。嫌なことのすべてを」
「だから、あんなに落ち着いていられたのか」
「たぶんね。それから、もうひとつ不思議なことがあったんだよ。きのうまでは雨の日になると必ず左足が痛んでいたのに、今日は全然痛くないんだ。官兵衛のおかげかもね」

半兵衛の言葉に、官兵衛は頬をほんのり赤らめた。
偶然じゃないのかといって笑ったのは、官兵衛なりの照れ隠しだったのかもしれない。
じめじめとした季節は、その後もしばらく続いた。
だが、半兵衛の古傷は雨が降っても再び痛むことはなかった。

2012.4.28 了
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