桜花

季節は長く厳しい冬を終え、春を迎えた。
この日、暖かなひざしのもとで羽柴家は春の宴を催していた。花見である。宴には、もちろん半兵衛や官兵衛らの将も参加している。だが、酒宴ということもあってか、酔って普段では考えられないことをする者が当然いる。
官兵衛はもともと酒に弱い上に、そういった者が昔から苦手だったため、秀吉に断って席をはなれた。
事情を知らない半兵衛は、てっきり官兵衛が気分を悪くして席をはずしたのだと勘違いした。
心配になった半兵衛は皆が酒に酔いつぶれているすきに、こっそり抜け出して官兵衛のあとを追いかけた。

しかし、追いかけているうちに半兵衛はいつの間にか、その姿を見失ってしまった。
気がつけば宴の席からも遠く離れていた。辺りに見えるものといえば、満開になったばかり花をつけている桜の木ばかりである。おかしいな、と思いつつ半兵衛は目の前にあった木の根元に腰をおろした。たしかに官兵衛はこちらへむかったはずだった。しかし、その姿は見えない。

半兵衛は急に寂しくなった。
去年までとまったく別の場所で、土地勘もない。
それなのに集団からはぐれてしまった。帰る道もわからない。あまつさえ、周りに人の姿もない。
こうなると半兵衛はなんだか、広い世界に一人で取り残された気分になった。こんなときに官兵衛がいてくれたら、どんなに心強いであろう。愛しい人と一緒なら、たとえ周りに人がいなくても寂しくなんかない。そんな気がした。

だが、いっこうに誰もこない。
とうとう、半兵衛は膝をかかえこんだまま、目を閉じてうつむいてしまった。もはや歩く気力さえわかない。そんなときだった。
誰かに、頭をなでられているような感じがした。
目をそっと開いて顔をあげると、そこには探していた男の姿があった。やっと待ち望んでいたときがきた。
半兵衛は男の体にすがり、その名を幾度も呼んだ。

「ごめんな。急にいなくなったりして。寂しい思いさせちゃったかな」
「さっきまでは寂しかったけど、今は平気だよ。官兵衛がきてくれたから」

嬉しそうに体にすがる半兵衛の頭をなでつつ、官兵衛は目の前にある立派な桜の木を見た。それだけではない。花の美しさも実に見事なものだった。その素晴らしさに、いつしか二人は見とれていた。

「今までたくさんの桜を見てきたが、ここまで立派なものをみたのは初めてだ」
「私もだよ。美濃でも、長浜でも、こんなに大きな桜は見たことなかった。それに、すごくきれいだね」
「そうだな。これはぜひとも、後世にまで残してほしい」

二人がそのような話をしていると、不意に南風が吹いた。花びらがあっという間に空中へ舞い上がり、地面にひらひらと落ちた。その一つが半兵衛の肩に、ふわりと落ちてきた。半兵衛はそれを取って手のひらに乗せ、しあわせそうな顔をした。

「半兵衛は本当に桜が好きだな」
「うん。私、花の中では桜が一番好きなんだ。この色合いも、形も、すぐに散ってしまうはかなさも」

だいすきなんだといって花びらを優しく両手で包み込んだ。その仕草が官兵衛にはとても愛らしく見えた。
とりわけ、夢中になったのは半兵衛が好んで着ている薄紅色の小袖であった。
日ごろからなにげなく目にしているものだが、この日は周りの風景とよく合って、いちだんと美しくなっているようにも思えた。
やがて陽ががすこしずつ傾き始めたころ、官兵衛は宴のことを思い出した。

「なあ、半兵衛。そろそろ宴席に戻らないか」
「そうしたいんだけどね。実は私、来た道がわからなくてさ」
「ならば、某が案内しよう」
「ありがと。頼りにしてるよ」

半兵衛は官兵衛の手をぎゅっと握った。
それが、なんとなく恥ずかしくなった官兵衛は振り返らずに話を続けた。

「しっかり握ってるんだよ」
「わかってる。絶対にはなさないから」

満開の桜が連なる道を半兵衛と官兵衛はさまざまな話をしながらゆっくりと歩いた。向かい合うことはできなかったが、それでも互いにぬくもりを感じながら過ごせた時間は、二人にとってなによりも幸せであった。

2012.4.2 了
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