言の葉 いつのころからということは、はっきりと覚えていないが半兵衛には昔から好きになれない言葉が、いくつか存在している。 そのなかには斎藤家に仕えていたときに、旧主やその側近たちにつけられた嫌なあだ名や苦手とするものの名が多いのだが、とりわけ彼を不愉快にさせる言葉がひとつあった。 それは羽柴家に仕え始めてからつけられた今孔明という異名だった。 この言葉は彼が好きになれぬ他のあだ名とは違い半兵衛を傷つけるものでもなければ、侮辱するものでもない。 むしろ、天才的な戦術家である半兵衛を高く評価した周りの者たちが尊敬の気持ちを込めてつけたものなのである。それは半兵衛もよくわかっているのだが、どうしてもこの言葉だけは好きになれない。 その理由は、今孔明の異名が諸葛亮の再来という意味を持つからである。 諸葛亮といえば、孔明の名でも知られる蜀の時代に活躍した名宰相である。幼いころから兵書を好んでいた半兵衛は、もちろんその功績を知っている。 知っているからこそ、なおさら今孔明と呼ばれることが嫌なのであった。 しかも、ここのところは以前よりその名で呼ぶ者が増えたため、半兵衛は誰かにこの悩みを打ち明けたいと思うようになっていた。 だが、悩みを聞いてくれそうな人物がなかなか思いつかなかった。 周りの同僚たちに今孔明の異名が嫌だということを言うわけにはいかないし、あるじに相談するような大きな悩みごとでもない。 同僚にも主君にも相談できないとなると、いったい誰に話を聞いてもらえばよいのであろう。半兵衛は考え込んだ。しかし、さすがの彼もこのことばかりはすぐに良い案が浮かばなかった。 そんなとき、ひとりの客がやってきた。 近ごろ、浮かぬ顔をしていることの多かった半兵衛を心配していたというその男は、まだ秀吉の傘下に入ったばかりの若い軍師であった。 「どうなさったのです。急に訪ねてくるなんて珍しいですね」 「ここ数日、貴殿の元気なお顔を見なかったもので。なにか悩みごとでもあるのですか」 やはり、この官兵衛という男には気づかれてしまったかと半兵衛は思った。 無理もないことである。 なにしろ、今の己には彼以上の知己はいないといっても過言ではないほど、官兵衛とは親密な間柄なのだから。 隠しごとなどするだけ無駄である。 それならば、思い切ってあの悩みを打ち明けてしまおう。半兵衛は決意した。 「あ、あの、官兵衛どの。実は相談したいことがあるのですが聞いていただけますか」 「もちろん。良いですよ」 「それほど大きな悩みではないのですが、私はどうしても自分の異名が好きになれぬのです」 「異名とはあれのことですかな」 新参の軍師は半兵衛の気持ちを察していたのか、あえて今孔明とは言わなかった。 だが目の前にいる二歳上の男が周りの人々に、その名で呼ばれていることはたしかに知っているようだ。 「あの名がどうして好きになれないのでございますか。 別に悪い意味はないのでしょう」 「はい。 でも、私ごときの将にはあまりにも不相応なものだと思うのです。今孔明だなんて」 「そうでしょうかね」 官兵衛はわずかに半兵衛のそばに寄り、話を続ける。 「某は貴殿にふさわしい異名だと存じまする」 「なにゆえ」 「だって、半兵衛どのは誠に素晴らしい策略家ですから。ちっとも不相応ではありませんよ」 「本当ですか」 「もちろんです。だから、もっとご自分に自信をお持ちください。せっかくの才能がもったいないですよ」 それを聞くと今まで心にいだいていた悩みは消えていき、不思議と気持ちも変わりはじめた。 このように自分を評価してくれる人がいるのなら、今孔明と呼ばれるのも悪くはない。 そして、ほんの少しではあるが官兵衛の言葉でみずからの異名が好きになれるような気がした。 2010.9.27 了 |