ねがい

「秀吉……さま」

今にも消えてしまえそうなほど弱々しい声で、胸を病んだ軍師はやや体を起こしつつあるじの名を呼んだ。
しかし声が届いていないのか、あるじはこちらにこない。
軍師はもう一度、その名を呼ぼうと思った。今度は先ほどよりも少し大きめな声で。

「秀吉……さま」

こたびもとても人を呼ぶときの声ではなかった。
だが、病身の彼にはそれ以上など出るはずもない。
届かなければ諦めよう。軍師がそう心に決めたときであった。

「どうした、半兵衛。そう何度も呼ばずとも聞こえておるぞ」
「聞こえていながら、わざときてくださらなかったのですか」
「すまぬ。ちと、むこうが忙しくてな」

秀吉は軽く謝りながら、そちらを指さした。なるほど。
言われてみればたしかに忙しそうである。半兵衛は納得した。

「ところで、わしになにか用があったのではなかったのか」
「はい。ほんの些細なことなんですが」
「かまわぬ。申してみよ」

いくさの最中とは思えぬほど穏やかに秀吉は言った。

「実は病を得てから、急に人恋しくなりまして。一人でいるのも怖くなってきましたゆえ、誰かに一緒にいてほしいと思うようになったのです」

秀吉はその言葉に耳を疑った。
たしかに半兵衛はこの春から持病の労咳が悪くなったため、今では一日のほとんどを陣中で一人、寝て過ごしている。
それゆえに人恋しくなるのも無理はない。
だが、心より愛する恋人がいる彼はどんなに寂しいときでも他の者と一緒にいたいなどと口にしたことは、一度もなかったのである。
そんな男がなぜ、今日になって一人でいることが怖いと言い出したのか。
そこまでは、さすがの秀吉にもよくわからなかった。

しかし一つだけたしかなことがあった。
それは半兵衛が、謀反を起こした古い友人を説得すべく平井山を離れたきり戻ってこない官兵衛をいまだに恋しく思い、その生存を強く信じているということだった。
織田家中そして播磨にいる彼の家族にも、その生は絶望的と言われているなかで、半兵衛は官兵衛が生きていると信じている数少ない存在であった。

主君である信長に官兵衛も友人の男とともに寝返ったのではないかと疑われ、人質である嫡男の処刑を命じられたときもだ。表向きは殺したことにしてみずからの城に匿ったほどだった。
よほど愛してやまないのであろう。秀吉はこのとき、官兵衛がいささか羨ましくなった。その愛情を、わずかでもいいからわしにむけてほしい。
そんなやましい思いが、心の中に生まれていた。

やがて辺りがだんだんと暗くなり始めたころ、半兵衛は再び床へついた。熱が出てきたというらしい。夕方から熱が出るのは、この病を患う者に多いのだという。徐々に上がる熱に、苦しげな表情を見せつつも彼は話を続けた。

「秀吉さま」
「んっ?」
「もし今、願い事が一つだけ叶うとしたら秀吉さまはどんなことをお祈りしますか」
「なんじゃ。やぶから棒に」

そう言いつつ、彼はすこしだけ考え込んだ。

「そうだな。早くこの城が落ちて戦いが終わりますように、かな」
「秀吉さまらしいですね」
「そういう半兵衛はどうなんじゃ」
「えっ、私ですか」

半兵衛はあるじのように深く考えることなく、すぐに答えを出した。

「私は最期にもう一度だけ官兵衛に会わせてください、ですかね。どうせ死ぬのなら、愛しい人の顔を見てから旅立ちたいものですし」

にっこりと笑って、彼は意外なことを言ってのけた。
秀吉は病が治ることを願っているのかと思っていたが、まったく違った答えが返ってきたことに驚きを隠せずにいた。
死を恐れないというところだけは、稲葉山で旧主の城を乗っ取ったときから少しも変わっていなかった。だからこそ今、死が間近に迫っていても半兵衛は平然としていられるのであろう。

「まったく。お前というやつは、やはり変わり者じゃな」

痩せこけた軍師の頬をなでながら秀吉はつぶやいた。
夏の夜風が主従を包み込むように陣の中を去っていった。

2010.6.4 了
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