さらば、愛しき人よ

「いよいよだな。覚兵衛」

目の前にそびえ立つ城を見上げながら騎乗の将、加藤清正は腹心の部下である飯田覚兵衛に声をかけた。

「そうですな」

覚兵衛からの返事は短く小さいものだった。
この男も、おれと同じようにつらい思いでやつらを討つことを決めたに違いない。彼の顔を見ながら清正は思った。なにしろ今、自分たちが取り囲んでいる城は最愛の恋人、小西行長の居城である宇土城だからだ。
清正ははじめ、この城を力攻めではなく調略で落とそうと考えていた。
そうすれば行長やその弟で覚兵衛の恋人の行景を傷つけずに、いくさを終わらせることができるからである。愛する者たちを救うために、その策を思いついた清正は宇土城にいる小西兄弟に、これまで幾度も降伏するように説得の使者を立てた。

しかし二人はその要求をことごとく断った。
戦うならば正々堂々戦おうじゃないかと言うのである。
清正はそれが嫌だった。武力では圧倒的に清正の方が勝る。兄弟もそれはわかっていた。けれど、それでも戦うと言うのだ。それは最初から死にたいと言っているようなものだった。
相手が説得に応じなければ、あとは力攻めしかない。
つらい決断ではあったが、清正は宇土城を攻めることにした。
攻撃を始めてから、やや時間が経って味方からの報告がきた。城主である行長は不在だという話である。

「あいつ、どこへ行った」
「行長どのは関ヶ原へ出陣されたようですよ」
「関ヶ原だと!?では、城内にいるのは」
「これは推測にすぎませぬが、おれは行景どのではないかと存じます」

庄林隼人の意見を聞いた覚兵衛は、ひどく悲しげな顔をした。あの城の中で今、戦っているのはみずからの愛する人だと知ったからである。
それを知った覚兵衛はしばらくうつむいたまま黙り込んでいたが、やがてなにかを決意したかのように、清正のもとを離れようとした。

「覚兵衛。どこへ行く」
「……」
「覚兵衛?」
「殿。私は決めました。行景どのを、助けにいきまする」
「なにを言う!」
「止めないでくだされ。私はもはや耐えられませぬ。このようないくさで、あのお方を亡くしたくないのです」

覚兵衛は下をむいたまま、拳を震わせて言った。
行景とは仲がよかっただけに、覚兵衛は清正よりもはるかにつらいのであった。
行かせたいという思いは清正にももちろんある。
しかし、いつ城が炎上するかもわからないし天守にたどり着いたところで、行景が覚兵衛の言うことを聞いて降伏するとは思えないのであった。
さらに城兵の士気もいまだに高いのだから、最悪の場合は討ち死にする危険性もある。清正はそれを懸念しているのであった。

「どうしても行くというのか」
「はい」
「死ぬかもしれぬぞ」
「かまいませぬ。たとえ行景どのにお会いする前に死んでも悔いませぬゆえ、行かせていただけないでしょうか」

実に固い決意である。
清正はそれを許すべきかとまどい、後ろにいた森本儀太夫にそのことを相談した。すると、儀太夫は行かせておやりなされというのである。儀太夫までもがそう言うのであればしかたないと清正は思った。そして結局、覚兵衛は単身で城内に潜入することになった。
だが彼が城へむかおうとした、まさにその時だった。突然、城が激しく炎上しはじめたのである。

「誰だ。おれの命令も聞かずに城へ火を放ったのは」
「違いますよ」

覚兵衛は静かに言った。

「火を放ったのはお味方ではありません」

行景どのでございます、と覚兵衛は続けた。

「おそらく、我らに降参だと言っておられるのでしょう。兵を引き上げるべきかと存じます」
「しかし覚兵衛。まだ行景どのが城内に」
「みずから城に火をつけたということがどういうことかは、殿もおわかりのはずです。帰りましょう」

覚兵衛はそれ以上、なにも言わなかった。
ほどなくして清正は兵を引き上げて居城へ戻ることにした。
それから、四人は関ヶ原での西軍大敗を知った。
清正は行長の無事を祈ったが、それも既にむなしい結果で終わってしまった後だった。

2010.5.3 了
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