至福のとき

険しい山道を官兵衛は、ただただ前へと進んでいた。
激務により体調を崩していた半兵衛を背負い、かれこれ数時間は歩き続けている。
前日も夜遅くまで執務に取りかかり、この日は朝早くに屋敷を出たせいか官兵衛はほとんど寝ておらず、歩きながら幾度となく睡魔に襲われた。
そして、眠気が限界に達したときであった。

「官兵衛、官兵衛」

背中で寝ていたはずの半兵衛が目を覚まし、前方を指さして名を呼ぶ。

「あれを見てよ」

半兵衛に言われて顔を上げると、遠くに小さな宿が見えた。

「官兵衛が言ってたのってあの宿?」
「そうだよ。不満……だったかな」
「ううん、全然。でも、どうして急に旅行しようなんて言い出したの?」
「半兵衛の体が早く治ってほしくてね。湯治というやつだ」
「嬉しいな……ありがと」

半兵衛はにこりと笑うと官兵衛の背から、ひょいと下りた。

「もう平気なのか」

官兵衛が心配そうに話しかけると、半兵衛はこくりとうなずく。
それよりも半兵衛は官兵衛の体が気がかりだった。
過労に睡眠不足が加わり、今の彼は立っていられるのが不思議なくらいなのである。

「それより、官兵衛こそ無理しちゃだめだよ」
「某はべつに」
「私、知ってるんだよ。官兵衛が昨夜、一睡もできなかったこと。お仕事を頑張るのはいいけど、ほどほどにしてね」
「わかったよ。心配かけてすまないな」

官兵衛はまだ足元がふらつき歩行の不安定な半兵衛の手を握り締め、再び歩き出した。

宿に着いたころ、官兵衛は一歩も動けないほどに疲れていた。
部屋で仮眠をとり、目を覚ましたのは夕方だった。
そのころ、散歩に行ってくると言って出ていった半兵衛が、ちょうど部屋に戻ってきた。

「今日ね、すごいところを見つけたんだよ」
「へえ……どこだろう」
「官兵衛も知りたいの?じゃあ、案内するね」

半兵衛に手を引かれて、たどり着いた先は浴場だった。
ただでさえ広いその浴場は、二人の他は誰もいないせいか、いっそう広く見える。
半兵衛がすごいところというのにも納得できた。

「少し早いけど……入ろっか。一緒に」
「そうしよう」

こうして、二人は山奥の秘湯につかった。
付き合い始めて、もうだいぶ経つのだが実を言えば、まだ二人で一緒に入浴したことはなかった。
官兵衛は主君との付き合いで、このようなことを幾度も経験していたため、すっかり慣れてしまっていたが一方の半兵衛はまったくの未経験である。そのため、緊張も甚だしいものだった。

「そっちへ行ってもいいか」

官兵衛の問いに半兵衛は首を横に振った。

「どうしてだ」
「恥ずかしい……から」

半兵衛が浴場で人と接するのを嫌がる理由は、体つきに悩みをかかえているからだった。
彼がこれまで、その華奢な体つきを馬鹿にされ続けてきたことは官兵衛も知っている。
しかし、まさかここまで深刻に悩んでいるとは思いもしなかった。そもそも半兵衛が馬鹿にされていたというのは、かれこれ十年以上も昔の話である。
彼をひどく扱っていた旧主の斎藤龍興も、とうに世にない。だから、もはや気にするようなことでもなさそうだが、よほど半兵衛の心の傷は深いのであろう。
亡き旧主につけられた、その傷は十年以上経った今でも癒えていない。

そんな半兵衛の心の傷を、官兵衛は癒してやりたいと思った。それはお節介かもしれない。けれど彼は思いわずらう恋人をこれ以上、黙って見ていられないのである。
恥ずかしさからか、こちらに背をむけてる半兵衛に背後から近寄り優しく抱き締めた。
半兵衛の体は思ったよりも小さく、色白でやわらかい。
それが湯につかってるためか、ほんのりと赤らんでいる。官兵衛は思わず息をのんで見とれてしまった。
彼の視線に気がついたのか、半兵衛はおもむろに口を開いた。

「あんまり……見ないで」
「そんなに恥ずかしいのか?」
「うん。私……こんな体だし。それに」

半兵衛がなにかを言いかけたとき、官兵衛はより強く彼を抱き締めた。

「官兵衛。痛い、はなして」
「それほどまでに嫌ならなぜ某を誘ったのだ。誰にも見られたくないのなら、一人で入ればよかったのではないか」
「……!」
「本当は最初から、こうなることを望んでいた。そうだろ?」

図星をさされた半兵衛は、くるりと体を官兵衛の方へむけると、その腕の中で声をあげて泣いた。

「怖かったんだ。このことを官兵衛に知られたら、嫌われてしまうんじゃないかって思って。でも……よかった。官兵衛が、こんな私でも愛していてくれて」
「当たり前だ。そんなことで、某は半兵衛を嫌いになったりしない」
「嬉しいよ」
「じゃあ、そろそろ上がろうか。長湯は体によくないからね」

官兵衛に抱かれながら立ち上がったとき、くらりと一瞬だけめまいがした。

「のぼせたのか」
「そうみたい」
「それなら、今日は早めに休もう。体に障るしな」

みずからを気遣う官兵衛の気持ちが身に染みた。半兵衛は、そんな彼が大好きだった。
着衣を済ませて部屋へ戻ると、半兵衛は官兵衛に先ほどからずっと思っていたことを話した。

「あのさ……今夜は特別に遅くまで起きてていいかな。官兵衛ともっと、いろいろなお話がしたいの」

これを言えば反対されるかもしれないと思った。だが、官兵衛の返答は意外なものであった。

「わかったよ。そのかわり、つらくなったら寝るんだぞ。せっかく体が治ったばかりなんだから」

ふわり、と官兵衛は手で半兵衛の頬に触れて、その唇に口づけをした。甘くて優しい口づけに、心が奪われる。
しばらくして、唇をはなした彼は半兵衛の目を見つめながら話しを始めた。

「……忘れたか」
「なにを」
「斎藤家にいたころのことだ」
「それはもう平気だよ。全部、忘れられたから。官兵衛のおかげでね」

そう言うと、彼は無邪気な笑顔を見せて官兵衛の布団に潜り込んだ。

「は、半兵衛!?」
「えへへ。今夜は官兵衛が寝るまで寝ないよ」
「それでは話が違うじゃないか」
「いいんだよ。それにこんな時間はなかなか取れないでしょ。だから、たくさんお話聞かせてね。もっと官兵衛のこと、知りたいから」

強気にそんなことを言った半兵衛であったが、官兵衛が話を始めようとしたころには、すでにぐっすりと眠っていた。
よほど疲れていたのだろう。いつもならば寝ながら強く抱きついてくるはずだが、今夜はそんな力もなく、ときおり寝言を口にしたり体を少し動かすくらいである。
そのような姿も、官兵衛には愛おしく見えた。

「これからは、なにがあろうと某が守ってやる。だから……離れるなよ」

彼は心の中で気持ちよさそうに眠る半兵衛にそう言うと、みずからもゆっくりと眠りへついていった。

2009.12.26 了
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