永久の別れ ふと、目が覚めたのはちょうど丑三つ時であった。 寝汗でぐっしょりと濡れた寝床から起き上がり、辺りを見ると傍らに愛しい男の姿があった。 こちらに背をむけているせいか、男は自分が起きたことに気がついていない。 しかし、どうやら寝ている様子ではなかった。 「かん……べえ……?」 不治の病に冒された軍師は、小さく男の名を呼ぶ。 かんべえ、と呼ばれた男はくるりと振り向き、ようやく半兵衛に気がついた。 「起きたか。ずいぶんとうなされていたけど、大丈夫?」 「ああ、うん」 「それはよかった」 官兵衛は、にこりと笑うと読んでいた書状に再び目を通し始めた。 「それは、いったい」 「秀吉さまから受け取った書状だ。村重どのが謀叛を起こしたと書いてある」 「摂津守どのが」 摂津守こと荒木村重は、摂津国の有岡城主であり官兵衛の古い友人でもある。その村重が突如、織田家に対して謀叛を起こしたというのだ。その話はまたたく間に広まり、やがて信長の耳にも届いた。 謀叛を知った彼は当然激怒し、すぐにでも村重を討ち取れと配下の者たちへ命じた。 それは言うまでもなく、官兵衛と半兵衛の主である秀吉にも伝わる。 しかし本来、人を殺すことを好まない彼は有岡の城を攻めようとは考えず、説得によって村重を織田家へ戻そうとしている。その役を買って出たのが官兵衛だった。 「官兵衛は……摂津守どのを助けに行くの?」 「うん。あの方は、某が助けなきゃ」 「……そう」 半兵衛は悲しげに言う。 愛しい男がまた遠くへ行ってしまうと思うと、寂しさは募るばかりだった。 それだけならまだしも、今回この男は反旗を翻した旧友のために、単身で有岡まで行くのである。 官兵衛は大丈夫だと言っているが、半兵衛は気が気でなかった。 この人は絶対無事には帰ってこれない。半兵衛の脳裏を、そんな予感がよぎる。なんとしてでもこの人の有岡行きを止めねばなるまい。 意を決して官兵衛に近づき、体に己の薄い胸をぴたりと寄り添う。たくましいとは言えないが肉付きのよい官兵衛の腕に、半兵衛の体がすっぽりと覆われる。 彼が好んで着用する桔梗色の小袖からは、わずかに芳香が漂う。ああ、心地よい。胸を患う前には、こうしてよく抱き締めてもらったものだと半兵衛は懐かしんだ。 「半兵衛?」 不意に声をかけられ我に返る。 そうだ。今はこんなことをしている場合ではない。一刻も早く、この人を説得しなければ。 甘えたい気持ちを抑えて半兵衛は説得を始めた。 「官兵衛。私からひとつ、お願いがあるんだ」 「なに?」 「有岡へ行くの、やめてもらえないかな」 官兵衛は困った顔をした。 本音を言えば、なにを今更といったところである。 だが半兵衛とて、わがままで有岡行きを反対している訳ではなかった。 実は先ほど悪い夢を見たのだ。 有岡に行った官兵衛が村重に捕らえられて帰らず、自分はその安否も知らぬまま、この世を去るという夢。 その話を官兵衛にしたが、どうせ夢だと言われて信じてもらえなかった。けれども半兵衛は恐れているのだ。あの夢が、現実となってしまう日がくることを。 「……いやだ。いやだよ、官兵衛。私、ひとりになりたくない」 胸を病んだ軍師は、その痩せ衰えた体を小刻みに震わせて声の限りに言った。 官兵衛になにが嫌なのかを問われても半兵衛は嫌だ、恐いとしか口に出さない。 すっかり閉口した官兵衛は半兵衛との距離を置き、その肩をつかんだ。 「半兵衛、よく聞いてくれ。たしかに説得に絶対の自信はない。失敗すれば捕まるのは必定。けれど、あの方のことだ。某を殺したりはしないはず」 「……」 「必ず生きて帰ってくるから。それまで半兵衛も……」 半兵衛はいまだ震えの止まらない体でもう一度、官兵衛にすがりついた。 接触すれば感染する危険性だってある病だというのにもかかわらず、彼は嫌な顔一つせずに、そんな半兵衛を幾度も優しく抱擁するのである。 「最後に、聞きたいことがある。某は……半兵衛を幸せにできていたか」 「どうしたの。急に」 「いや、ちょっと心配になってな。 あの日の誓いを守れてなかったらと思って」 「そんなこと、考えてたんだ」 くすりと微笑んで、半兵衛は言う。 「これを……幸せ以外に、なんと言うのでございましょうか」 初めて一緒の布団で寝た夜も二人きりで花見や夏祭りに行った日も、すべて、半兵衛にとっては宝と言っても過言ではなかった。できるなら、この幸せがずっと続けばいい。まだ心のどこかでは、そんな思いが募っていた。 「時間だ。そろそろ行かなくては」 立ち上がろうとする官兵衛を半兵衛は、もう止めようとしなかった。止めても無駄だと思った。 この男の決意は固い。これ以上の説得はやめ、彼を信じて待つしかない。 あれほど有岡行きに反対だった半兵衛の心はこのとき、ここまで変わっていた。 「気をつけて……行くんだよ?」 「わかってる。半兵衛も病気になんか負けるなよ。無事に帰ってこれたら、また一緒に暮らそうな」 約束だ、と彼は半兵衛の額に軽く口づけをして屋敷を後にした。 残された半兵衛はどうか昨晩に見た夢が現実になりませんように、とひたすら願うばかりである。 2009.11.22 了 |