鍵盤と兄と彼と6
そんなつかの間の休みの数日後、単独コンサートの日が差し迫る。
「しんどい……」
迫る本番に向け日に十数時間の練習。
肩も首も濡れタオルで冷やし、指先を保護するよう料理はおろか、髪を結う事すらも自分ですることを禁止されるほどに音楽家として窮屈な日々を送る。
この時が一番美織にとって嫌いな日々だ。
レッスンが辛いわけじゃない。
ただ、年々自由が効かない気がしてならないだけ。
昔はただ、好きな様に弾いて好きな様に奏でていたら褒められた。
だが今はコンマ数秒のズレすら許されない。
トイレ、と言って防音室を離れて廊下にしゃがみこんで、壁に掛けられた時計の秒針の音をただただ聞く。早く戻らないといけないとは思っているがなんだか両足が重りが付けられたように重く、動ける気がしない。
どれほど時間が経ったろうか、凄く長く感じたけど先生が出てこないのならきっとたいして時間は経っていないのだろう。
くぅ……と腹の虫が空腹を訴えて鳴いた。
体は正直で食べる事を求めている様だ。
「お腹すいた」
ぽつりとそう呟いても誰の耳にも届かず壁、床、天井に吸い込まれ、時計の秒針がかき消した。
「そりゃあ朝からずっとレッスンしていたら腹も減るだろう」
急に聞こえたのは何百時間聞いたかも分からない先生の声でもなく、幼い頃から、いや声変わりしたから同じ訳では無いが……幾度となく聞いた兄の幼馴染の声。
「零くん……どうしてここに……」
「また根を詰めてるんだろうってヒロに聞いた。
俺から先生には伝えるから、ご飯にしよう。食べないと練習にも身が入らないだろう?」
「お兄ちゃんは?」
「ヒロは仕事が抜けられないからな……俺じゃ嫌?」
「そ、そういう訳じゃないけど……!」
「まぁ師匠のヒロの料理には敵わないかもしれないが、結構うまくできてると思うぞ」
ヒロ兄ちゃんの作るご飯は美味しい。そして、そのヒロ兄ちゃんから料理を教わった零くんの料理も勿論美味しい。
多分、私が作るより……
「零くんのご飯が美味しいのは知ってるよ。
ありがとう……今日は何?」
「見てからのお楽しみ。ほら、先に行ってこい」
「うん!」
さっきまで蹲っていた様には見えない程元気に廊下を小走りで駆けていく姿に降谷は来てよかった、と息を吐いた。
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