01 | ナノ


 校舎裏の土埃が立つところに水を撒きながら延々と続くホースの長さに躓きそうになってしまい私のやる気は形をひそめ、その場にしゃがみ込んだ。ルールの分からない野球部の練習風景なんて見たくもなく、私はホースの口を指で挟んでビロードのように広がる水を眺めていた。

「無駄に水を流すな」

 上から声が降りかかり、見上げれば二階の窓から機嫌の悪そうなリヴァイ先生が顔を覗かせていた。

「遊んでるんです」
「帰って遊べ」
「お母さんはよく私に泥んこになって水遊びしなさいっていいました」
「女のくせにむさ苦しいぞ」
「子どもの育ちに水は不可欠なんです。息をするのと同じに、私は水遊びが必要なんですよ」

 先生に水をかけようとホースを二階に向けたが、すぐに窓を閉められてしまい飛び出した水は私に降り注いだ。かかる水の温度は先生の言葉よりはあたたかい。私には予感がしていた。私が放課後に一人で水遊びなんてしているのを気にかけて、様子を見に先生が二階から降りて来てくれるのだ。そしたら、私は4つ数を数えたあと先生に飛び込んで幸せが目に見て取れるぐらいに抱きしめあい、そして素敵を感じる。

 けれども、絵空事は簡単には起きないということを前に先生が私に言っていた。実際、その通り先生は私を心配して二階から降りて現れることはなかったし、抱きしめられることも幸せを指になぞらえて素敵を食むこともなかった。すっかり土を被った鞄を拾い上げて私は自宅への帰路へ就く。

 形のない数を数えながら先生を考える。夕方六時を過ぎようというのに空はまだ明るく、夏がじょじょにやってきているのだということに気が付いて無性に切なくなった。激しい寂しさに捕らわれてしまわないため、逃げるように寮へ辿り着いて湯船にも浸からずシャワーだけ浴びるとすぐにベッドを潜りこんだ。

 午前を過ぎる頃、廊下から響いてくる妙な足音に目が覚めた。私の部屋を通り過ぎて、だんだんと離れていく足音を枕越しに聞き取ってから、目だけを玄関に向けると扉の隙間から差し込まれたらしい封筒が床に置いてあった。こんな時間に届けられる手紙の存在は明らかに異質で気味が悪い。友達の突拍子もないイタズラなのだろうか。どちらにせよ、まだ眠気の残るまぶたを起きあがらせるには十分な理由にならず、私は再び枕に顔を埋めながら眠りについた。

 朝、起きると深夜に届けられたはずの手紙はなくなっていた。ますます気味が悪いが、寝ぼけていただけかもしれないと深く考えることはやめて私は学校へ向かった。

 先生は夏がやって来ようとも変わらず教壇に立ち、抑揚のない声で授業を進める。授業中に目が合うことは絶対にない。私が大きな音を立てて椅子や机をずらそうとも、空気を読まないくしゃみをしても、うるさく男子生徒と喋っていても私と先生が視線上で交わることは決してない。私は授業が終わる度に先生を嫌いになって、授業が始まる度に先生を好きになる。

 その日は、気のない生徒とキスをした。昨日、ホースで水をまいた場所で強く肩を掴まれながら、交わされる唇は濡れていた。顔を赤く染めながら、名前しか知らない彼は、また明日と言い、はにかみながら帰って行った。手を振り、彼の姿が見えなくなると、ずるずると地面に座り親指を噛んだ。フェンスを挟んだグラウンドにはラグビー部の練習風景が見える。当然、ルールなんて分かるはずもない。

 私は寮に帰ることはせず、先生が使っている宿直室へと足を進めた。どうしても会いたくてたまらなかったが、宿直室に当の本人はいなかった。先生、怒るだろうなとは思いつつも、靴のまま畳の部屋に上がり寝転んだ。先生と初めて会った時を思い出す。先生が拒もうとも、あんなに苦しくて甘い思い出はそう簡単に消えやしない、私の日常はあの時に置いてきてしまった。

 寝返りを打って、隙間の開いた襖に自然と目が行った。見覚えのあるものが、はっきりと目に入る。いつの間にか近付いていた足音にも気付かず、私は無心にそれを手に取っていた。

「何している」
「先生、昨日私の部屋に来たんですね」
「……あ?」
「手紙届けてきたの先生なんですね。嬉しい」

 振り返って先生の冷たい目を見つめた。これ以上ないというほどの情をこめて。けれど、先生は私が握っていた手紙を取り上げ、髪を掴んで私を畳から引きずりおろした。

「土足で上がるんじゃねえよ、汚ねえだろ」
「痛い、先生」
「とっとと帰れ」
「嫌だ。だって先生、」
「その手紙は俺のじゃない」
「嘘! それなら、何でここにあるの」

 髪を掴む先生の手を爪で引っかきながら、ついに涙がこぼれた。先生はどうしようもない嘘つきだ。

「嘘つき、ぜんぶぜんぶ嘘! 私、知らないわけじゃないんだよ」

 泣き叫ぶ私はずいぶんと醜いだろう。涙がこぼれてから先生の顔はよく見えていない。先生の足にすがりながら私は思い出を巻き戻していく。先生は、高校の入学式に遅れた私を淡々と叱りつけながら体育館まで付き添ってくれて、友達がなかなか出来なくてトイレで昼を食べようとする私を無理やり、この部屋を掃除しろだなんて理由をつけて一緒に昼休みを過ごしてくれたり。友達が出来てからも先生は何かと私に掃除を言いつけたし、課題が終わらない時は怖かったけど先生なりに教えてくれた。その後に先生が出してくれるコーヒーが苦かったけど私は大好きで。それから、私が階段から落ちた時、保健室に先生はやってきて寝ている私の髪を撫でて、そして頬に触れたあと耳元で囁いたのも。

「私ね、あの時起きてたんだよ」
「……言うな」
「あれから私、独りよがりでもいいから自分の中でこう願ってた。先生と私は秘密の恋人だって」

 寂しい夢を私は抱き続けていたのだ。私はひとしきり泣き終え、肩でえづきがら床にうずくまる。先生に起きあがらせられて、目に見えない汚れでも落とすかのように私の体をはらった。

「とにかく、手紙は俺のじゃない。落ち着いたらすぐに帰れ」

 変わらない目で先生は言った。嫌いだ、先生なんて。

 寮に着いた頃には外はもう暗い色を落としていて、どうしてもご飯を食べる気になれず友達に私を置いて食堂に行くよう促した。ベッドにこもりながらとめどない時間の流れに身を任した。頭の中で感覚があやふやになり次第に眠りへと落ちるころ、また聞こえた。昨晩と同じ足音が遠くから私の部屋へと近付いてきている。私は急いでベッドから飛び出し、はだけた寝間着も散らかった髪も気にせず扉の前に張り付いた。ゆっくりとした歩調がやがて部屋の前で止まり、私はたまらず扉の向こうにいるはずの先生を思いながら思い切り扉を開けた。

しかし、そこにいたのは先生ではなく昼間、校舎裏でキスをした生徒だった。

「びっくりした、そっちから開けてくれるとは思わなかったよ」
「こんな時間に何してるの」
「昨日の返事が聞きたくて、待てなかったんだ」
「昨日の返事ってなに?」
「手紙だよ。今日のキスで答えは分かってるけど、言葉で聞きたくて」
「手紙……」

 部屋の扉に差し出された手紙。彼が言っているのはそのことしかありえるはずもなく、私は呆然とした。先生の言うとおりだった。私が願ってたやまなかった、あの手紙は先生からのものなんかじゃなかったのだ。けれど、おかしい。それじゃあなぜ先生はあの手紙を持っていた。

「あの、手紙受け取ってない」
「え、どういうことだよ。だって、手紙を読んだから君は今日僕に」
「その、あれは、ごめん」
「……ごめんって何?」
「あのキスはそういうつもりじゃなかったの」

 ばつが悪く私は言った。すると、返ってきたのは返事ではなく強い衝撃で、自分が殴られたのだと自覚した頃には床に倒れて相手は馬乗りになっていた。

「やっぱり君はひどい女だ。ずっと人の気持ちを踏みにじって、あげくにはこうだ」
「ど、いて」
「あの時、ちゃんと消えてろよ」
「消えるって、どういうこと」
「手紙にも書いたさ。階段から落としたんだ、僕が」

 喉がひゅうっと音を立てて鳴る。授業も終わり夏休みが始まったあの日、浮き足立った生徒たちのなか私も例外ではなく、帰る前に一目先生に会いに行こうと思った矢先、私は誰かにぶつかって階段を落ちた。今思い起こしても、あのときに感じた背中の感触は押されたようには思えなくて、日常の中で感じ得るとても自然なもので。彼は躊躇いも何もなく私の背を押したのだろうか。あの日の思い出が全て悲しく冷たいものに染まっていく。先生はあの事故から私に素っ気なくなった。

「私、何も悪いことしてないのに」
「したよ。僕のことに気付きもしなかっただろ。死ねばいいと思ったよ」
「それって、死ななきゃいけないほど悪いこと?」

 片手で首をゆっくり絞められながら、見えない自分の足を思い浮かべて天国に辿り着けますよう私は祈った。親だったり、友達だったり心苦しいけど、何よりも胸が痛んでしょうがないのは先生に会えないことだ。子どものようなわがままだけど、今日が人生最後の日だと分かっていたなら、どうしても先生の恋人に私はなりたかった。

 ああ、辛い最期だなあ。そんな私の最期のことをみんなはちゃんと悲しんでくれるかなあ、と思いながら霞む視線を彼の後ろにやると、影が見え、よく見ると誰かがいた。彼の仲間だろうか。無意識の内に手を伸ばすと、それは彼の仲間ではなくて、私が会いたくてしょうがなかった先生だった。

 先生は空きっぱなしだった扉を閉めると、首を絞めていた彼は後ろに気がつく前に蹴り飛ばされた。何を言うでもなく、先生によってただ黙々と続けられた暴力は泣き喚く隙も与えず、終わった頃にはたまの痙攣だけでピクリとも動かない彼がいた。そんなことの後でも落ち着き払った先生が、部屋の隅で固まる私に詰め寄ってくる。肩を掴まれて、一瞬驚いてしまった私に舌打ちをしたあときつく体を抱きしめた。頭のなかで、まるでドラムの鳴る音がする。

「私、体が熱くなってきた。眩暈がする」
「あぁ」
「好き、先生もそうでしょ。そう言ったもの」
「さあな……」
「先生に会う度に私、悪い子になっていく気がして」

 形を確かめるように夢中で先生の顔に手を添える。刈り上げられた項に、右に流れる前髪と小さな輪郭。こうして目の当たりにするのは廊下に転がる彼も私も本質的には変わらない欲を抱いているということ。絶望はしない。私は、もうみんなみたいに普通の子じゃないのだ。先生だってそんなこと分かってるはず、今の状態がおかしいってこと。救われない、焼き付いて離れないほどに夢中になってしまっている、きっと。

 乱暴なキスが口端を噛んで、合わせた唇はかさついていた。私の腰を掴む手が痛い。少しでも離れれば、もっとと私はせがみ、お互い知らぬ間に床に倒れ込むようにしてキスをしていた。泣いて全てが流れるならと私は、先生より素敵な人なんていないと何度も呟いた。

「もしこれが最後だとして、死ぬ前に先生は言い残したことはある?」
「そんなことは、いつだって考えてる」

 生まれたんならいつかはくたばるんだ、人間だからなと言って先生は私が再び問いた秘密の恋人という夢に頷いた。ドラムロールが鳴り響き、ビロードの幕は閉じられる。




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