誘拐犯な音也と被害者のトキヤ




「ストックホルム症候群」


赤毛の青年は呟くと、椅子を回して私と向き合って笑い、知ってる?と問いながら笑った。仮にも誘拐犯でもあるというのい、これほどまで無防備でいいのだろうか。私は驚くほど冷静な思考でそう思い、知りませんと返事をした。


「犯罪被害者が犯人と一時的に時間や場所を共有することによって過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くこと、ってね」
「………そうですか」


私はこの、一十木音也という人間にある日誘拐された。いつものようにHAYATOの仕事を終え、自分の家に帰ろうとしたところを狙われていたわけである。
聞けばHAYATOの大ファンであり、一種の追っかけというものだったらしい。風の噂で私とHAYATOが同一人物だと知ると、こんな危険な行動に踏み出したのだという。なんとまあ愚かな人物だろう、私はそう思った。一時の情に流されて突発的な行動をするのはよくない、そんなのはアイドルの世界でも当たり前のことだ。いや、だからどうだと聞かれれば、なんでもないとしか言いようがないのだけど。


「俺は好きだよ、トキヤのこと、ね」
「あなたはHAYATOが好きなんでしょう?」


誘拐されたその日、本当は生きた心地がしなかった。ただ怖くて、自分がこれからどうなってしまうのかもわからなくて、目の前の男に怖気づくことしかできなかった。しかし一十木音也は、私の予想の斜め上をいく人間であった。音大に通う学生であり、私と年齢はさほど違わない。なんでこんなことをしたのかと聞けば、君の歌が好きだからとまっすぐな目線を向けられて言われた。真摯な態度に思わず驚いた。彼は私をどうこうしようとは思っておらず、本当に衝動的なもので誘拐に至ったらしい。これからどうするつもりですかと聞くと、どうしようかなあと困ったように笑っていた。本当に無計画な人なんだと思うと、私まで笑ってしまった。


「確かに俺はテレビ越しのHAYATOに憧れてた。でも、トキヤを知ってから、君の魅力に気付いたんだよ」
「なんですか、それ」
「そのままだよ」


もう大人だという癖にコーヒーを飲めない彼は、コップに入ったホットココアを飲みながら笑う。
一十木音也はHAYATOの全てに感動していた。お笑いアイドルとして活動する半面、歌が素晴らしかったのだ。音大に通っている身としては、仕事と歌を両立してもあれほどのものが作り上げられる彼を崇拝し、惹起される他なかった。毎日のように歌を聴き、ニュースを見ては彼を知ることを楽しみにしていた。
そして噂を聞く。早乙女学園に、HAYATOとそっくりの双子の弟がいるということを。本人なのでは、と囁かれていた。そんな限りなく無に近い可能性に期待をした彼は、毎日のように学園の傍をうろうろしていた。そして本当に瓜二つである、一ノ瀬トキヤを見つけて驚く。どこからどこまでそっくりの彼は、双子というレベルではなかった。けれど決定的に違うのは、纏っている雰囲気だった。HAYATOのような気安さはなく、寡黙な雰囲気に圧倒されるものの、音也にとっては絶対に同一人物だという確信があった。根拠なんてものは、勿論存在していなかったけど。そして気付けば俺は、自分の車に彼を連れ込んでいた。抵抗するな、静かにしろ、なんて、テンプレートな誘拐犯の科白を口にしながら。自分でも何をしているのか、これは犯罪じゃないかとわかっているのだけど、もう後戻りができないのだと思うと、どうしようもないと乾いた笑いを浮かべ、ミラーに映るHAYATOとそっくりの、一ノ瀬トキヤの怯えた顔に好奇心を募らせた。


「……まあでも、あなたの頭が正常な人でよかったです」
「はは、誘拐なんてしてる時点で正常とは言い難いけどね」
「でも本当に、気が違ってるような人じゃなくて安心しました」


今私は、紛れもなく誘拐監禁ということをされているのだろうけど、正直言えば生活に不自由はしていなかった。外出を禁止されたりと、そういうことはあるけれど、彼のマンションは好きに使っていいと言われているし、HAYATOという、無理矢理な人格を演じなくていいんだと思うと安堵した。歌だって、好きなように歌っていいと言われた。彼に歌ってと言付かることもあるけれど、それも嫌ではなかったから。もしかしなくても、今の生活の方が安定しているのでは、なんてことさえも思った。


「で、トキヤは俺のこと、好き?」
「はい……?」
「俺は好きだもん、トキヤのこと。美人だし、歌はうまいし、言っちゃえばHAYATOよりもトキヤのほうがいいって思う」
「あ、あなた……」
「もうこのままずーっとうちに居てほしいくらいだもん」


あ、でも出ていかれたら俺は犯罪者なのかあ、なんて軽々しく口にする彼を見て、溜め息をついた。これはもしかしなくても、恋愛感情さえ抱かれてしまったのだろうか、そう思うと気が遠くなる思いが横切る。普通に怖い、それは。私はそっち側の人間ではないし、彼だってもともとは私の歌が好きだと言っていたし。


「でも、私は――」
「わかってる、さすがに強姦罪まで加算しようとは思わないから」
「ごっ………!?」


冗談冗談と笑う彼を見て、聞かなかったことにしよう、そう思い、ご飯作りますねと立ち上がると、はいはーいと間延びした声で彼は返事をした。彼がテレビをつけると、ニュースの画面には私の顔が映っていて、テロップが見えた。ああそうか、世間一般だと私は行方不明ってことになっているんだった。それなのに、犯人と笑い合っているなんて不思議な話だ。心底そう思う。そしてさらに、普通に彼と自分の食事を作ろうとしている自分に驚いた。
無意識とは怖いもので、つい数か月前まではまともに使われていなかったであろうキッチンに私は立ちつくしていた。いつからだろう、ここに居てもいいと思い始めてしまったのは。私がいないと、彼は生きていけないんじゃないだろうかと心配をしてしまったのは。彼が捕まってしまった時、彼の歌はどうなるんだろうと思ったのは。そうだ、私は彼の歌が好きだった。自分ではとてもできないような歌い方をしていて、すごく楽しそうで、気付けば私も彼に惹かれていたような気がした。


『ストックホルム症候群』
『犯罪被害者が犯人と一時的に時間や場所を共有することによって過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くこと、ってね』


彼特有の、弾むような声が脳裏に反響した。好意等の、特別な感情なんて、とっくに有していたなんてなんと滑稽な話だろう。キッチンにある包丁を掴み、辛い感情に胸が押し潰されそうになる。何も知らない彼は、のんきにリビングで歌を歌っていた。




11111210
それこそ終わりに近い







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