パタリ。自分が寝起きしている部屋から出て、寮の廊下に出た。少し冷え込んできた十月の頭、新年度が始まってもう一ヶ月は経った。まだ朝だというのにイギリスは相変わらずの寒さで、もうセーターが手離せない。
ああ寒い。何でスリザリン寮は地下にあるんだ、冬にはどうする気なんだ。一人文句を心の中で呟きながら、談話室へと足を運ぶ。
地下牢にある我がスリザリン談話室は窓から湖の中が見える。たまに大イカが張り付いている時は本当に驚いたものだ。まあそれはいいとして、取り敢えず手に持っていた本を部屋にあるテーブルに置いた。ふぅ、ソファーに一息つく。起き抜けというものはどうしてもぼうっとしてしまうものだ。覚醒までは少し時間がいる眠気に、背凭れに体重を預け考え事にふける。
「レっギュたーん!!おっはよう!今日も相変わらず美少年だね!」
「なまえ朝から五月蝿いです貴方の知能指数はトロール以下ですか?」
そんな一番ゆっくりとしていたい時に、女子部屋に続く扉から台風のように彼女はやって来た。ピクシーのように騒がしい。とても騒がしいし、何より毎日毎日朝からテンションハイに挨拶するのはよく飽きないものだと思う。
ニコニコとだらしのない顔で跳ね寄ってきたのはなまえ・みようじ。不本意ながらも同じスリザリン寮同学年なのだ。そう、不本意ながら。
「レギュたんったらひどーい!ぷんぷん!」
「わざとらしく可愛いこぶらないで下さい、気持ち悪いです」
「ちぇー、分かりましたーもうしませんー」
「分かれば宜しいです」
このなまえという人間は、何かとおかしな人物だった。僕は今三年生。同学年であるなまえも当然の如く一緒なのだけれど、入学当時の船の上、つまるところ出会ったばかりの頃から、彼女は僕にいつも絡んできた。組分けでも絶対にハッフルパフあたりだろうと思っていたのに、よりにもよってスリザリン。衝撃を受けたのは当たり前だろう。
ブラックくん?だっけ?船の上だけじゃなくてこれからもよろしくだね!
組分け帽子を脱いで既に僕が座っているスリザリンのテーブルの近くまで走ってきたなまえは、嬉しそうな笑顔でそう言った。生憎だが僕は宜しくしたくありません。と言いたかった。ブラック家の為にも全力で自らを押し止めた僕は非常に偉かったと思う。勲章を貰ってもいいくらいだ。
何かにつけてレギュー!レギュたーん!と周りに迷惑な大声で駆け寄ってくるなまえ。あまりの日々の濃さにブラックくんと呼ばれていた最初の頃が懐かしくなる。しかも、一年生の冬にはあまり思い出すのに憚られる思い出すらある。ああ、今でも思い出すだけでなまえを今持っている本の角で殴りたくなる位。
「レギュ?おーい、眠いの?」
「別に眠くはありません。考え事をしていただけです」
「そっかぁ〜、あ、そうだ」
なまえが名案だ!とでも言うようにテーブルに身を乗り出す。
「ねぇレギュ!今度飛行術教えてよ!ちょっと散歩したいんだよー」
「…………は?」
「レギュいつもスイスイーって乗ってるじゃん、お願い!」
僕は暫し思考が停止していた。 こいつは、何を寝惚けた事を言っているんだ。
ヘラリとした顔で顔の前で手を合わせているなまえに声も出なくなる。まさか、あの事を忘れているんですか?怒りに震える声でそう聞いてみると、彼女はきょとんとした。そんな間抜け面の頭に、今度こそ本の角を落としてやる。
「痛ったー!!レギュ何するの!」
「貴方がこんなに鳥頭だなんて、思いもしませんでした。いや、元々馬鹿でしたね」
「何怒ってるの?だから飛行術―」
だから、なんであんな忘れようと思ってもふとした瞬間に思い出してしまうような記憶をなまえは忘れられるんだ。そう、その忌々しい記憶とは、一年生の10月頃。丁度今と同じくらいの時期だ。飛行訓練でぼろぼろな成績のなまえが声を掛けてきた所から始まったのだった。
ー ー ー
「ブラックくーん!」
「…何ですか、みようじさん」
「返事がそっけないよー!」
「すいません、それで、何の用ですか?」
にこり、と笑顔を貼り付けて応対する。今は丁度飛行訓練が終わったばかりの時間だった。一年生は最初、箒に乗れるように飛行術の授業があるのだが、このみようじは落ちてばかりだった。何故それを僕が知っているか?別に、僕は一ミリたりとも知りたくもなかったのだけれど、マダム・フーチに大声で激を飛ばされていれば嫌でも目につく。
そんな事を考えつつ、視線をみようじに向ける。マフラーに顔を埋めた彼女は、飛行術の訓練をして欲しいの!ブラックくん、すぐに乗れてたから…。そう言った。
僕は引き受けたくない。だけど、飛行訓練が終わった直後、キビキビとした態度でこちらに向かってくるマダム・フーチ。先生に頼まれたのは、他でもない、彼女の飛行訓練をしてやってほしいというお願いだった。入学したばかりだし、何より評判は良くしておきたい。面倒臭いことこの上ないが、引き受けるしかなかった。何てことだ、授業の復習もあるのに。
嫌々ながらも、人当たりのいい笑顔で「ええ、勿論」と答えると、彼女はぱあっと顔を華やがせ、早速箒を地面に置きだした。ああ、面倒臭い。
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「や、やった……!浮いた!浮いたよブラックくーん!!」
「……ハァ、やっと、ですか」
「私、箒に乗れてる!私魔女なんだねーー!!」
「取り敢えず、そのまま少し飛んでみてください。さっき教えた通りに」
「オッケー!!」
僕が付きっきりで一時間。みようじはやっと自らを乗せた箒を浮き上がらせることができた。やっと、終わった…。疲れがピークにきていた。彼女は興奮しながらも空を飛んでいる。そうだ、マダム・フーチにも後で連絡しなければ。やっと解放された安堵感に包まれている時に、その事態は起こった。
「ブラックくーん!これ、どうやって降りたらいいのー?!」
「身を少し屈めて、ゆっくり降りてきてください!」
「わかっ、え、いや、キャー?!?」
僕の言葉に返事をしようとしていたみようじが突然叫んだ。
「えっ?」
疲労困憊していた僕は一瞬反応に遅れてしまい、みようじが乗った箒から投げ出され、僕の方に落ちてくるのを防げなかった。杖を出す暇もなかったのだ。そして、強く突き飛ばされたような衝撃と、自分の口元への違和感。
「いっ、たたた……」
「……みようじさん」
「ブラックくん、あ、あの、」
「貴方は、馬鹿ですか!!!これは事故です!口も……っ、もう、暫くは話し掛けないで下さい!!」
僕の上に乗っていたみようじを乱暴に払い退け、素早く立ち上がると城へ歩き出す。ブラック家の人物としての振る舞いなど頭から完全に抜け落ちてしまっていた。
口元への違和感。あれは、間違いなくみようじとキスをしてしまったということで。流石の僕でもまだ一年生。女子とキスをしたことによる気の動転と、羞恥心でどうにかなってしまいそうだった。ぽかんとしたみようじなど知るものか。一瞬だけ掠めた自分の口元を、ローブの袖口で強く擦った。
ー ー ー
「〜…っだから、あの一年生の時のアレです!貴方は覚えていないなんて言わせませんからね!」
「一年生……あっ、あ、ああ!アレね!あ、あはははは…」
「で、もういいです。飛行訓練はフーチ先生に頼んで下さい。僕は朝食に行きます」
やっと思い出したのか、ハッと気が付いたような表情をしてからばつが悪そうに視線を泳がせる。まさか、完全に忘れていたなんて。思い出して気にしていた僕が馬鹿みたいじゃないか。取り敢えず僕は、思い出してしまったものを忘れるようにソファーを立ち上がり、談話室を素早く出た。
あんなあんぽんたんの事なんて知ったこっちゃない。間抜け面の友人の頭を、本の角で想像で叩いた。
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