【ただ一度きりの】9 | ナノ


金を払うから寝ろ、と言われ、胸の奥が万力で押し潰されたように痛む。
臨也との間に信頼や信用といった生ぬるい関係など存在した事はなかった。
だから、裏切られた、と感じるなんて。感じた方が間違っているのだ。

静雄は、瞠っていた眼を臨也から逸らしできるだけ声が震えないように気をつけて答えた。

「あれは別に…1回1万てのは言葉のあやで。いつもウリしたり寝てるわけじゃねぇよ。
…だいたいいくら金詰まれたって手前専属になるつもりはねぇ」

その返答に、臨也は面白くなさそうにぶすくれて食い下がった。

「なんで俺じゃ駄目なの。あいつとは1万で寝たんでしょ?」

「だから寝てねぇって!
…あの男が道で女を捨ててんのを偶然見かけてムカついたから。あいつにも捨てられる気持ちをわからせてやろうとハメただけだよ。俺はシャワー浴びて出てきただけだ」

事実を伝えたのに、臨也は納得していないと意思表示をするように目を細めた。

「だって、そんなのシズちゃんらしくないじゃない。嵌めるとか考え方、君の行動パターンにないでしょ。
なのにそんな似合わない事してやりたくなるくらい、捨てられてた女に感情移入したとでも言うの?
じゃぁ、なに?シズちゃんは同じように捨てられた事があるわけ?誰に?何時?どうやって?」

淀みなく責める言葉を投げつけながら、臨也の空気がまた重いものに変わっていく。
先ほどまでのどこか穏やかにも思える空気がじわじわと侵食されるようで、静雄はすいと目を逸らした。

「テメェだろ。俺をボロ雑巾のように捨てるなら」

柔らかい空間が名残惜しいと感じる自分を誤魔化したい一心で、何も考えないままそう口にした瞬間。それまで静雄を咎めるように睨んでいた臨也の目が信じられないものを見るように大きく開かれた。

「…まさか、自分と重ねたの? それって…」

しまった、と思った時には遅かった。
沈んでいく空気に耐えかねて、つい、本音を零してしまった。

「違ぇよ」

チッと舌打ちをしてすぐに否定をするが、臨也はもう静雄の気持ちに気がついてしまったのかもしれない。

「やっぱり俺とつきあってよ」

それまで隣に横たえていた身体を静雄の上に乗り上げて、臨也は胸を密着させる形で体重をかけた。
更に両頬を掌で固定され、上から目を合わせられると静雄はその視線からすら逃れる事ができなくなってしまう。

「しつけぇな…手前も大概。玩具なら他をあたれ」

「違うよ。シズちゃんが好きだから付き合って欲しいんだ」

薄い布1枚を隔てて密着した胸が熱をおびて、どくどくと血脈が流れるのを伝えてきた。

「なんだ…その取ってつけたような言い草は。だいたい今までの…好きな奴にやる行動じゃないだろ」
今まで散々騙されてきた記憶が、そんな言葉など信じてはいけないと心を頑なに拒否へと導く。

「好きな子にする行動だよ俺にとったら」
さらりと鎖骨に髪が触れ、胸元に臨也の額が押し当てられる。

「だってシズちゃん、俺の事大嫌いだし素直に好きだなんて言っても信じてくれなかったでしょ?
だから、嫌悪だろうが憎悪だろうが君の中に俺の存在を捩じ込むには、ああするしかないと思ったんだ」

少しくぐもった声は、どう言う意味があるのだろうか。
静雄は天井を見つめたまま指先さえ動かす事なく先を促す。

「いつからだよ…」
「そんなのわかんないよ。恋を自覚したのは結構早くて…高1の秋だったかな?あん時は絶望したけどね。なんで俺がシズちゃんなんかにって」

あははっと自嘲気味に笑うしぐさに、胸のどこかに小さな針が刺さったような痛みを感じた。

「気のせいだと思いたくて女の子をとっかえひっかえしてみたけど全然収まらなくて。
まぁ、最初はシズちゃんとどうこうなりたいとは思ってなかったし、憎まれてれば喧嘩の時だけはシズちゃんの時間も心も独り占めできるでしょ?
だからそれでいいかって思おうとしてたんだけど…。あの日、シズちゃんてば喧嘩の最中に気を逸らすんだもの。
俺との、神聖で唯一の喧嘩の最中にだよ?それで、カッとなって押し倒したんだ」

ごめん…、と、謝罪をされる。
そんなこと言われたって、はいそうですかと許せるような事ではなかった。
どんな理由があったにしろ、何も解らないまま無理矢理身体を暴かれ、拓かれ、それから長い年月無体を強いられる度に心は傷ついてきた。

けれど…、

もしも、この臨也の告白が裏のない真実ならば。自分が今まで流されてきてしまったその行為に名前が付くのなら…。
間違いなく嬉しいと感じてしまうのだろう自分の感情も、腹立たしいが少なからずあるのだと気が付いてしまった。
確かに臨也の言う通り、いつの間にか捩じ込まれてしまったのだ。臨也の存在を、自分の中に。

「くだらないことって思わないでよね。俺にとっては喧嘩がシズちゃんの心を奪う唯一の手段だったのに、それすら他の誰かに占められるなんて許せなかったんだ」

思い返せば確かに…、臨也が盛る切欠は静雄が喧嘩以外の何かに気を取られた時や、喧嘩中に気が抜けた時だったような気がする。
ただの喧嘩に、こいつはそれほど執心し固執し渇望していたのか…と思うと、器用な男の不器用さに心が動かされる。
臨也をそれ程までに余裕なく行動させた原因が…俺なら。
心にふわりと咲いてしまった歪んだ温かい気持ちを、静雄はもう見ないふりをする事が出来なかった。
ああ、もう、やはり自分は考えるのが苦手だ。どうしたいのか、なんて、小難しいこと考えてはじき出すもんじゃない。仕方がないのだ、この感情は。
呆れたような諦めたようなため息を吐くと、何を勘違いしたのか、びくりと臨也の肩が揺れた。
例え勘違いの通りの溜息だとしてもそれは自業自得だと云うのに、しようのない男だ。静雄から完全に否定をされても仕方がないと自覚も覚悟もしているのだろう。その上で、それでも逃したくないと駄々をこねている。

「…ほんと、馬鹿だな」
「うるさいな。知ってるよ…」
「…まぁ、お前が考えてる通り、俺は手前が大っ嫌いだし今までの事を簡単に許すつもりはない」
「…そうだろうね、でも「だけど、ここ8年の手前との喧嘩は、すでに俺の中でも日常だ」

何を言いたかったのだろうか。臨也のセリフを遮って続ける。話は最後まで聞いた方が得な事もある。

「その喧嘩を、じゃぁやめるかと言ってすぐに止めれる段階でもねぇ。
…つまり、それは手前の努力が実を結んだって事だろう。ムカつくが。
きっと、少なくともこれまでと同じだけの年月が経たねぇと喧嘩を止める事もできなぇだろうな。
だから、俺が手前との喧嘩に飽きる前に、手前が俺を好きだって事を俺に信じさせてみろよ」

自分にとっては精一杯の返事をしてやる。
最初は訝しそうな顔をしていた臨也が、目を大きく見開き間抜けな顔になったかと思うと、ふっと顔を綻ばせて、いつもの嫌みが抜けた零れるような笑顔を作った。
どうやら言いたい事が伝わったようだ。

「8年もいらないよ。すぐに俺の言う事を信じさせて、俺の事を好きにさせてあげる」

自信を取り戻してしまったその顔はムカつくぐらいオトコマエで。
認めたくはないがほぼ出来レースのような状態に、おそらく本当にそれほど時間はかからないかもしれないと感じた。
けれども、そう易々と落ちてやる気はなかったのでせめてもの抵抗を見せてやる。

「そうかよ。それじゃぁ“すぐ”じゃなかったら俺の勝ちだな」

「それなら、俺の負けでいいからさ…」

今すぐ好きになってよ、と囁いて視界を塞ぐ黒色に目を瞑りながら、そう言えばこいつの唇の温度を感じるのは初めてかも知れない、と、降ってきた薄い唇に噛みついてやった。






たった一度きりの恋だから




もう離すつもりも逃がすつもりも、ない



20111022

おわり