悪夢 | ナノ

※嘔吐&トラウマ注意※



「シズちゃん」と声を掛けられて、吐いた。

揶揄でもなんでもなくそのままの意味で。俺の口からは朝飲んだ牛乳だとか昼に食べたハンバーガーだとかが、惜しげもなく吐き出される。
トムさんが驚いた顔で心配してくれるが、大丈夫ですと言う間にも口からは吐瀉物が流れ出た。
この状況で一番驚いているのは恐らく俺自身だろう。
確かに、声を掛けてきたノミ蟲は吐き気をもよおす最低な下衆野郎で、常々顔も見たくないと思っていた。だがまさか、本当に顔を見ただけで吐いてしまうなんて…。
胃の中に在ったものをあらかた吐き出し、なおも絞り出そうとゲエゲエえずく俺に、臨也が「大丈夫?」と声をかけてきたので、耐えきれず今度は胃液を吐いた。

あまりに苦しそうに嘔吐を繰り返す俺に、見かねたトムさんはもう帰って良いと午後を休みにしてくれた。
臨也がいなくなったら吐き気が収まったので、続けますと言ったのだが、いいから休めと半ば無理矢理帰らされたのだ。
ノミ蟲を見てこれほど顕著に拒否反応が出たのは初めてだった。
馬鹿にされからかわれ追いかけ回している時も、嵌められて警官から逃げている時も、ノミ蟲に対して自分の心を占めていたのは純粋な怒りだけだった。臭い匂いに顔をしかめる事はあっても、心も体も全てがあの疎ましい存在を拒絶して、まともに顔すら見れなくなるなんて…。いや、あんな存在汚物、目にするのもおぞましいが。
これは、自分では自覚していないだけで、余程体調が悪いのかもしれない。
ならば早く寝てしまおうと、簡単にシャワーを浴びてベッドに潜った。
明日も仕事があるのだ。体調が悪いなら朝までに元に戻さなくてはならない。

しかし、夢の中で静雄はもっと最低で最悪な気分になった。
体中を這う無数の黒い蟲。身体の隅々にまとわりつき、目や口、言葉にするのもはばかられる場所に入り込み外から中から喰われ犯される。そんな夢だ。
夢のくせにやたらリアルで生々しい。
不快感と苦痛から必死に虫の駆除を試みるも、後から後から湧いてでる蟲に為す術はなかった。
朝起きて、思わず鏡を見る。
曇った鏡に映る男らしくない白い肌には、蟲に噛まれた痕跡も粘着くような感覚も綺麗さっぱりなかった。

夢見が悪かったせいで、気怠い身体を引きずって仕事に向かう。
多少やりにくかったが午前中の取り立ては滞りなく片付けることができた。
順調に終わったので、トムさんと少し早い昼食を取る事にする。いつもの店に向かう途中、またノミ蟲と遭遇した。
常ならば、俺がいち早く気が付いて臨也は見つからないように逃げ回るのに。
やはり俺はどこか体調が悪いのかもしれない。臨也が目の前に現れるまで全く気が付く事が出来なかった。

わざわざ何の用だ、と声に出す前にまた吐いてしまう。
今日は昼食を採る前だったおかげで、胃液だけで済んで良かった…と思いながら、体を折り曲げ近くの電柱に縋りついた。

その様子を見て、臨也が嬉しそうに近寄ってくる。
よせ、来るな、触るんじゃねぇ、と口にする前に臨也の手が肩に触れ、びくりと大袈裟に体が震えた。
「どうしたの?シズちゃん、今日も吐いて」臨也の手が肩から背中に移りやわやわと擦る。
筆舌し難い気持ち悪さに、反射的にその手をはねのけギリっと睨むと、臨也は笑いながら駅に向かって歩いて行った。
トムさんは何があったのかと心配したが、今朝飲んだ牛乳が古かったからだと思いますと嘘をつき、気力で残りの取り立てを終わらせた。



カンカンと古びたアパートに取り付けられた階段が、甲高い音を立てている。
なんだか1日がとてつもなく長く感じて疲弊感が募った。
実際は、がむしゃらに取り立てたおかげで何時もより早く帰れたため、日を跨ぐまでにはまだまだ十分過ぎる時間があったのだけど。
階段を半ばまで登った所で、どこからか吐き気をもよおす匂いを嗅いだような、嫌な予感がした。
気のせいであってくれと祈りながら最後の段差に足をかけるが、やはりと言うか当然と言うか予感は外れてはくれなかった。

「おかえりー早かったね」
手を上げて、まるで昔馴染みの友人のようににこやかに話しかけてくる黒い蟲。
治まっていた吐き気がぶり返すが、昼食は採らなかった…−正確には採れなかった−…ので、何も吐かずに済んだ。
問答すら億劫だったので臨也を無視して部屋に入ろうとするが、扉を押さえられて邪魔をされる。
「なに?シズちゃんのくせに無視すんの?生意気〜」
こちらの都合を一切考えないイラつく声に、喉の奥で酸が暴れる。
「黙れノミ蟲。今日は気分じゃねぇんだよ」
「シズちゃんいっつも気分じゃないでしょ。てゆうか、俺が気分じゃない時は問答無用で殴ってくるくせに、ほんと自分勝手だよね!」
「…五月蝿い。見逃してやるから消えろ」
無駄だろうと思いながらも、万分の1の奇跡が起こってこのまま臨也が静かに消えてくれないだろうか、と心のどこかで儚い期待をこめて睨む。

けれども、返事は当然のように否だった。

「やだよ。せっかくピッキングしないで寒い中待ってたんだから、部屋に入れてくれても罰は当たらないでしょ?」
褒めろとばかりに胸を張られるが、そもそも中に入る手段にピッキングが含まれる時点でマイナスからのスタートだ。褒められるところなどどこにもない。

こうなってしまったら、何時も通りの喧嘩をして追い払わない限り、臨也は意地でも家に入ってくるだろう。
けれど残念ながら、今日の自分に臨也を追い返すだけの余力はなかった。だからと言って素直に家の中に入れるつもりはなかったが、臨也は隙を付いて体を玄関に滑り込ませてきてしまう。
静雄はもう何も言わず、大きな溜め息だけを一つついた。



勝手知ったる人の部屋。表現をするならそれに尽きる。
初めて静雄の部屋に入ったくせに、臨也はまるでどこに何が有るか知っているかのように歩を進め、迷いなく冷蔵庫に辿り着きそこから的確にビールを取り出した。
情報屋なんてお天道様に顔向けの出来ない胡散臭い事をやっていたら、他人の家の中まで自在に分かるようになるのか。
本当にこいつはろくでもない。

「シズちゃんも飲む?」
缶を差し出しながら臨也が言った。
「いらねえよ」
ビールは苦いから嫌いだ。飲み会で付き合い程度には飲むけれど、わざわざ自分から積極的に飲みたいとは思わない。
プシュッと乾いた空間にプルタブの開く音が響く。
サングラスを外してテーブルに置き、蝶ネクタイを外したところで一連のやり取りに違和感を覚えた。

「…………」

おかしいだろう。明らかに。

なんで初めて入った部屋で、こいつは迷わず真っ先に冷蔵庫に行き着けたんだ?
どうしてその冷蔵庫に、自分が苦手な…−買った覚えのない−…缶ビールが入っていた?
何故、こいつは、そこに座るのがさも当然とばかりに、俺がいつも座って寛ぐ場所に座っている−…?

首の裏から腰にかけて悪寒がひとすじに駆け抜けて、背中を嫌な汗が伝うのを感じた。
呼吸すらままならない。
口はカラカラに渇いてしまってごくりと飲み込む唾液すらない。
止まった時間。ゆっくりと振り返った目線の先で、臨也がちゅっと音を立てて缶から唇を離したのが見えた。
ぺろりと口端を舐めとる仕草がスローモーションのように感じる。
静かな空間でドクドクと心臓の音だけが五月蝿くて、耳元で鳴り響く鼓動は頭の中で反響し、一層速く大きくなっていく。
視線が絡み無意識にヒュっと息が止まる。
臨也は赤い目を厭らしく細め、にぃっ、と三日月形に口を歪ませた。


無意識にカタカタと指先が震える。
「ああ、何でこの家に缶ビールが有るかって…?俺が買って入れたからだよ」
「いや、違うよ?勘違いしないで。ピッキングなんかしていないよ、“今日は”ね」
「もちろんシズちゃんちの間取りを知っているのも、俺が情報屋だから…なんかじゃあない!」
臨也が一人で勝手に喋りだす。
「まぁ、盗聴器だとか盗撮だとかすれば可能だろうけどね、そこまでする必要はないよね。だって直接入っちゃえばいいんだからさぁ」
どうしてだか足が竦み、立つのも苦労をする。
臨也の口から吐き出される音は脳の襞をするする滑って、咀嚼し理解する前に消えていく。
「けどさぁ、酷いよね、シズちゃんも」
臨也が腰を上げ、こちらに向かってゆっくり歩いてきた。
同じだけ後ずさり距離を保とうとするが、猫の額のような部屋だ。

「俺がここに来た事、忘れちゃうんだもん」

忘れる…?−…なに、を?

「来たってゆうか、忍び込んだ、が正しいかもしんないけど」
すぐに壁際に追い詰められ、逃げ場がなくなった。
「あんなに忘れないように傷つけてあげたって言うのに!まさかショックが大きすぎて逆に忘れちゃうなんてさ」
臨也の顔が近づいて、甘い声が耳元で悪魔のように囁いた。

「そんなに嫌だった?

忘れて、なかった事にするくらい、傷ついた?




俺とのセックスは…−」





「……あ、」


瞬間、忘れていた記憶が脳内に濁流のように押し寄せた。

「あ、あ…、うわぁあぁぁぁぁぁあ!!!」
頭を抱え耳を塞ぎ座り込む静雄の手首を、許さないとばかりに掴んで臨也はなおも容赦なく続ける。
「びっくりしたんだよ?次の日さぁ、俺に犯されたシズちゃんはいつもより怒るのか泣くのか逃げるのか叫ぶのか、どうするんだろうって楽しみにしてたのに!人の顔見た途端いきなり吐くだけ吐いて、肝心の俺に強姦された事はすっかり忘れちゃってるんだもん」

ガタガタ身体が震え、指先の感覚がなくなるほどに冷たくなっていく。

「だからさ、昨日は忘れないように薬で自由を奪うのはやめて、普通〜に犯してやったのに。あんまり抵抗しないから何でだろって思ってたら…シズちゃん今度は夢のせいにしたんだね」
シズちゃん怪我とかすぐ治るから、せっかく付けた鬱血も後孔の挿入痕も寝ている間に治っちゃったんだね。明け方犯せば良かったよ、失敗したなぁ!あはははは!

臨也がつまらなそうに、けれども愉快そうに何か喋っているけれど、全て雑音のように耳殻でざーざー木霊するだけで、俺には何を話しているのか理解ができない。

冷たい手が頬に触れ、首筋から胸元へ伝いシャツの上から心臓の辺りをなぞる。
とんっと押されると力の抜けた体はドサッと鈍い音を立てて冷たいフローリングに転がった。
人形のようにごろりと横たわる身体に乗り上げ、上から見下ろす臨也の酷薄な微笑を視界に捉えながら、ああ、自分はこれから正気のままこの悪魔のような男に抱かれるのだ、と他人事のように考えた。

正気を保ったまま犯され嬲られるなど、それこそ気が触れてしまいそうだ。
いっそ、夢のような世界で正気も正体も無くし、訳も分からずぐちゃぐちゃにされた方が何万倍もマシだった。


それが、一生醒める事のない悪夢だとしても―…。


俺の、ささやかな自己防衛と現実逃避と一縷の望みは、けれど殺人犯には些末すぎる抵抗で




「駄目だよ、シズちゃん」



「夢に逃げるなんて許さない」






静寂な天井に響く、残酷な殺人予告に

ひとすじ

目尻からこめかみに涙が伝うのを感じた



ナイトメア ビフォア―
夢は醒めない

20110426

臨也の気持ちに目を背け続けるシズちゃんに、業を煮やした臨也がとうとう最低な行動に出たものの、やっぱり無かった事にされて、いい加減にしてよと正面から襲ってみた話。…と書くと、ポップで両想いな話のように感じていいですね!←
やたら難産だと思っていたら完成までに10日近くかかっていたとゆう…。