【ただ一度きりの】5 | ナノ


「てめぇなぁ…」
あまりに好き勝手言われ、怒りを通り越して呆気にとられてしまう。
緊張感をなくした静雄は、いつものように「1万はぽっちなんかじゃねぇ!手前みたいな悪どい外道には解らねぇかもしんねぇけど、まっとうな人間は一日一生懸命働いて、ようやく手にする金なんだよ」と、文句を言ってやろうとしたのだが、男を睨んでいた臨也の目が自分を捕えた瞬間、思考回路を侵されるような恐怖に包まれ、何も言えなくなってしまった。
笑っていない、どころではない。感情が一切凍りついてしまったような、摂氏を思わせる無機的な冷笑。
その細い身体の何処に内包されていたのか、どす黒い感情がおどろおどろしく渦巻き、冷然と熱情の矛盾すらも飲み込んだ赤い瞳だけが、ただ、鈍く光っていた。

静雄はこの瞳を知っていた。

初めて抱かれた時に、行為の最中ずっと、叩きつけるように向けられていた眼だ。

いつもとは違う。憎しみも怒りも軽蔑も嘲笑も何一つ含まれない、静雄の抵抗の一切を奪う、絶対的で無情な支配者の眸子。

逃げなければ…。

じり、と後退ろうとするとするより一瞬早く、伸びてきた手に掴まれる。
びくりと身体が委縮し、心臓が耳に有るかのように大きくどくどくと早鐘を打った。
「はな…せ」
口から紡がれた言葉は思った以上に細く小さく、まるで庇護欲を誘うかのような弱々しいものになってしまう。
それに、静雄は唇を噛んだ。情けない…。どうしてしまったのだ自分は。
あれからもう10年近くも経つ。その間に数え切れないほど身体を繋げた。手酷く抱かれた事も両手に余りある。
むしろ、優しく抱かれた事など一度もなかった。
それなのに、本能がそのどれとも異なると警告を鳴らし、今すぐ逃げ出したいと心が悲鳴を上げている。

「………っ」

強く腕を引かれ、言葉もないまま歩きだした臨也に、静雄は着いて行く事しかできない。
普段、黙れといくら言っても零れる言葉が後を断つ事のない男が、深く重く沈黙を守っている。
前を行く黒い背中が圧倒的な支配力でもって、抵抗は許さないと言っていた。
静雄にとって、いつもなら箸を持つほどに容易い“腕を振りほどく”と言う意思表示も、逃げる事も叶わず、嫌だと声に乗せる事も息をすることさえもままならない。
悔しくて、唯一支配を逃れた唇だけを噛みちぎらんばかりに噛みしめた。

どれほど歩いたのか。ほんの数分が数時間にも感じるままその重圧に耐え、気がつくと臨也のマンションに着いていた。
エントランスを抜け、エレベーターに乗せられ、ドアをくぐり、ベッドに投げだされるまで、静雄の思考は哀れなほどにその役目を放棄していた。
どさり、と、自分がベッドを軋ませ、柔らかい毛布が掌を優しく受け止め、ようやく静雄は今から自分が目の前の男に抱かれるのだと理解した。

いや、抱かれる、と云うのは語弊があるかもしれない。
喰われるのだ。
まさしく、ただしく、自分は、これからこの飢えた獣に喰べられる。

ああ、そうか、だから抵抗が出来なかったのだ。

身体が竦み抵抗らしい抵抗をまったくすることが出来なかった、最初の一度。
喰われるだけの自分は、ひたすら無力な餌だった。四肢を差し出し、骨までしゃぶられ、啼く事も悲しむ事も出来ないただの餌。
捕食者は欲望のままに獲物を蹂躙し、見返りも、そこから生まれるなに一つさえ求めず、犯し尽くした。
だからこそ、本能が人より敏感な自分は、あの日、その強すぎる一方的な搾取に恐怖し、怯え震える事しかできなかった。
二回目以降は手加減されていたのだ。この男に。
壊したいほど憎い自分を相手に、手加減をする。それほど、可哀想だったというのだろうか自分は。

静雄は、怒りと羞恥とよく解らない悲しみとで自身の目に薄く膜が張るのを感じた。





20110427

つづく