桜が綺麗だな、と思った。 いつもの通学路でいつもの時間。春も終りに近づいたうららかな朝日の中。 短く咲き誇っていた桜がその花弁をはらはらと風に舞い踊らせ最後の艶姿を誇示している。 落ちてくる花びらを掴まえようと静雄は手を伸ばした。けれど、なんど試してもそれは指の間をするりと抜けてしまって、触れる事すら叶わなかった。 こんな花びらにさえ自分は嫌われてしまっているのか…。 そう思うと少し哀しくなってしまう。 ふと前を見ると、数メートル先の角を黒い影が通り過ぎて行った。 ブレザーの多い生徒の中で、その黒い制服はひと際目立つ。誰かなんて、確かめなくても決まり切っていた。 こんな時間になんでこいつが…。と思ったが、その学ランはブレザーの集団の中で唯一、薄紅色の吹雪と対等だった。 ノミ蟲相手に悔しいが、まるで絵画のようなその光景に思わず目を奪われてしまう。 眠いのだろう。黒い背中がしきりに欠伸をしながら桜の中を進む。 こちらが殺気を放っていないとは云え、天敵がすぐ後ろに居るというのにまったく気が付く様子がない。 ストレートの黒髪が歩くたびにさらさらと揺れ、舞い散る花びらと戯れる。 それは腹が立つほど様になっていた。 あ…。 よく見ると頭のてっぺんにひとつ、桜の花びらが絡まっていた。 指通りの良いストレートでは、なかなかそれは絡まずに滑り落ちてしまうと云うのに…。 花を携えて、一層、その絵は完ぺきになったように思える。まるで、桜の樹にさえ愛されているような…。 そこまで無意識に考えて、静雄は自分の思考に絶望を覚えた。 どうして俺は。なんでこんな性根まで腐った糞ノミ蟲なんかを見て絵になるなどとのんびり見惚れてしまっているのだ。 馬鹿か。死ぬのか。いや死ななきゃならないのはノミ蟲だ。そうだ、ノミ蟲殺しに行こう。 某キャッチフレーズのように爽やかな、だが、穏やかではない解決策が浮かぶ。 善は急げとそれを実行に移そうと踏み出したところで、突然目の前で薄ピンクが舞った。 黒髪に絡まっていた花びらが春風に攫われたのだ。 ――思わず、手を伸ばす。 はらり ふわり と蝶のように舞って。どうせ、触る事もできないんだろうと思っていたそれは、けれども今度こそ白い掌にそっと降りてきた。 静雄は茫然と自身の手に収まった薄いピンクの花びらを見つめた。 結局、捨てる事はしなかった。否、できなかった。 …ただの、どこにでもある花びらなのに。 お昼ご飯もそこそこに屋上で花びらを眺める。 憎たらしいノミ蟲にくっついていた花びらだけど、まるで自分のものになるために舞い落ちてきてくれたようだった。 なんだか春からのプレゼントのようで心が温かくなる。 やがて萎れて茶色くなってしまうだろうけれど。それでも嬉しくて、静雄は薄い花びらに唇を寄せてみた。 そっと唇で触れたそれには、自分の“嬉しい”“幸せ”と言う気持ちが込められて、その形に相応しく大事なものになったような気がした。 「…あほか」 自身の恥ずかしい軟弱な思考に羞恥が湧く。 その時、屋上の扉が軋んで開く音がした。 見なくても匂いで分かる。入ってきたのは臨也だった。 静雄はせっかくの穏やかな気分を台無しにされたくなくて、自分が気付かないふりをすれば見つかる前に消えるだろうと無視をする事にした。 それなのに、何故か臨也はわざわざ近づいてくる。 「なにしてんの?」 返事をするのも面倒だ。どうしてこいつは邪魔されたくない時に限って邪魔をするんだろう。 朝のように普通にしていれば絵になるというのに…。性格が人として終わってるなんて本当に残念な奴だ。人間じゃなくてノミ蟲だから仕方がないのか…。 思考に気を取られていると、臨也の手が目の前をすっと横切った。見るとさっきまで指にあった花びらがなくなっている。 一瞬で掠め取られてしまったのだ、と気がついた時には、花びらは臨也の口の中に消えていた。 「な…」 なんで。どうして。おまえが。…お前が、それを食べるんだ。 それはお前が俺に…ちがう俺が俺に、幸せや嬉しいを込めて、それよりもそれに俺は唇を… 混乱した頭は意味にならない言葉を羅列する。 けれども、自分が口づけた花びらを食べられてしまったという事実に。意図せず間接キスを奪われたのだと頭が理解をしたとたん、一気に顔に熱が集まったのを感じた。 「シズちゃん?」 いつもは人を蔑むように呼ぶくせに。やめろ、俺とお前は殺し合う仲だろう。そんな普通の友人を呼ぶような声色で、ふざけた渾名を口にするな。 言い返す言葉は何一つ声にならない。 「なにそんな可愛い顔してんの…」 ああ、もう、死んでしまいたい。 お前こそ、そんな情けない顔で柄にもなく頬を染めてあり得ないセリフを吐くんじゃねぇ。 「か…可愛いって…」馬鹿にすんな、と、続けようとして、自分の声が情けなく震えている事に気がついた。 これ以上ここに居ては醜態を曝すばかりだ。もしも問い詰められ花びらとの秘め事をうっかり吐露する事になってしまったら…。 そう思ったとたん、体は本能に任せここから逃げ出す事を選択した。 後ろで臨也が自分を呼ぶ声がしたけれど、そんなのに構う余裕などはなかった。 逃げ出した事を馬鹿にされるより、朝からの碌でもない乙女思考が天敵にバレる方がよっぽどダメージがでかい。 こんな事になるなら、桜の花びらに心を込めた口づけなんかするんじゃなかった、と後悔しながら、静雄は黒い悪魔から逃れるために階段を3段飛ばしで駆け下りた。 ピンクのハート ファーストキスは桜の香り 20110416 このあと臨也が全部おいしくいただきました |