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 無事に日課の水汲みを終え、町へと戻る道を歩いていたミファールの耳に入ってきたのは、親友の泣き叫ぶ声だった。
「どうしてっ…どうしてあんな怪しい男を中に入れたのよっ!!」
 見れば普段は気が強くも優しいエーレンが、半狂乱になりながらも見張りの西側の兵士へと食ってかかっている。その異様な光景に思わずミファールは目を見張った。
「エーレン!!どうしたのですか!?」
「ミファールッ!!」
 親友の姿を見付けた彼女は、スルリと兵士の脇をすり抜けミファールに駆け寄った。
「助けてッ…怖い…怖いよっ…!!」
 首にしがみつく両腕は、ひどく震えていた。何かに怯えているかのようなエーレンを宥めてやりながら、その理由を問い掛ける。
「一体…何があったんですかエーレン?」
「魔族がっ…魔族が襲ってきたのよっ!城門を普通に通って怪しいローブの男が入ってきて…心配して声を掛けたマティッカおばさんを…」
「えっ…!?」
 耳を、疑った。聞きたくもない事実だった。思い当たるのは…先刻すれ違ったあの男。
 さっき笑って挨拶を交わしたおばさんの身に一体なにが起きたのだろうか…?それを聞いたミファールは、エーレンの腕を振りほどき城門へと駆け出した。
「ミファール!?ダメッ…いま町に戻ったら!!」
 エーレンの叫びも聞こえていたが、この目で確認するまでは受け入れられなかった。
「おばさん…っ!!」
「ダメだっ!!いま町の中に戻るのは危険だっ!!我々に任せて君は早く外へ逃げなさい!!」
 だがすぐさま見張りの兵士に押し戻される。東側の兵士は警鐘を鳴らしながら、応援部隊を必死に呼び続けていた。二人にだって、突如として起きたこの事態など、いまだ理解出来てはいなかったが…それでも必死に職務を守らねばならぬと感じたからだ。
「いやですっ!!おばさんが…マティッカさんが中にいるんです!!離して下さい!!行かせてっ」
「あっ…!!」
 鎧で動きの鈍い兵士の虚を突いて、スルリと城門をくぐり抜ける。よろめきながらも何とか姿勢を戻し、顔を上げ、そして目にしたのは…地獄のような光景。
「う…そ…ですよね…」
 燃えていた。慣れ親しんだ広場の市のテントも、美しく整えられた街路樹も、揃いの外観で旅人を楽しませていた、家々も。
 辛うじて、神殿だけは無事のようで、そこに集まった兵士が応戦をしている相手は…異形の怪物達の群れ。町と湖とを往復するだけだったミファールの人生において、見た事も聞いた事すらも無い生き物だった。
「いや…いや…何なんですか…これ」
 上擦る声をそのままに口に出したのは、誰に問うでもない呟きひとつ。勿論、それに返事をしてくれる者などいる筈もない。
「神父さまっ!!神殿長さまっ!!」
 だが気丈にも尊敬する人の存在を思い出し、大神殿へとまた駆け出す。脇目も振らず、ただ前だけを見て走っていた彼女だが、足元の何かに気付かず躓いて前のめりに転んでしまった。
「いたっ………─ッ!?」
 擦った肘に手を当てながら振り返る。靴先にヌルリとした感触を覚えて視線を追うと、その先にあったのは…─
「マティッカおばさんっ!?」
 お気に入りだと言っていた、花柄の布を頭に巻いたエプロン姿の女性。くせのある長い髪をひとつに縛り、いつも笑顔で挨拶してくれた…マティッカおばさんの変わり果てた姿を見て、心臓がギュウッと悲鳴を上げた。
「おばさん…おばさん…嘘ですよね?こんなの夢ですよね?」
 血まみれで倒れていたおばさんの体は、既に冷たくなっていた。
「いやっ…嫌ですおばさん!!目を覚まして!!」
 必死に名前を呼びながら、胸元に付けていたエンブレムをその手に強く握る。尖った先端を手の平に食い込ませると、ブツリという鈍い音と共に真っ赤な血が滴り落ちた。そんな自らの血をマティッカさんの体に垂らし、ミファールは涙声になりながらも祈りの言葉を続けた。
「我らが魂を救いし命の母、イリェネディールよ…そなたの子であるこの身に流れる血を一滴受け取りたまえ。我が血をもって、尊きこの者の深き傷を、その慈しみと深い愛で癒しどうか拭い去りたまえ…」
 略式ではあるが、最高峰の癒しの神聖魔法を使った。必死だった。本来ならば、血を使った神聖魔法は神殿長の許可を得ないと使用してはならないものなのだ。それでも、後でどれ程の咎めを受けようとも、彼女を助けたかった。
「おばさん…!!」
 しかし、ミファールの願いも虚しくその体は動かないまま、静かに横たわっていた。そう…癒しの魔法ですら、手遅れなのだから。そんな事実を突き付けられた彼女は、組み合わされたその両手を無言で下ろした。涙が止まらない…どうして?どうしてこんな酷い事が…─
 次第に遠退いてゆく意識の片隅で、なにかが弾ける音が聞こえた気がした。じわり…まるで内側から食い破るかのように何かに侵食される感覚に、抵抗をする術はミファールには残っておらず、そのまま崩れて手放した意識とともにその『何か』に我が身を明け渡していた…。


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