あ、羽丘先輩。 早朝、人気のない廊下。職員室で鍵を借りて保健室に向かって一人歩いていると、そんな声が後ろから聞こえてきた。次いで迫ってくるパタパタという足音。その声に聞き覚えのない私はキュッと上靴を鳴らして振り返る。ああ、君は…。
「えっと、狩田くん?」 「狩屋です。おはようございます、先輩」
振り向いた先にいた彼は、おはようという私の言葉にニッコリ微笑みを返してくれた。そうだ、この丸っこい低めの声はこの子のものだ。昨日の保健委員会で紹介されていた男の子。狩屋マサキくん。たしか、そんな名前。 うわあ、笑顔まぶしいなあ。真新しい学ランに身を包んだ狩屋くんを、ひかえめに上から下まで眺めてみる。
「あの、先輩」 「なに?」 「一緒に保健室まで行ってもいいですか?オレまだ場所とかよく分からなくて…」 「もちろんだよ、一緒に行こう」
心配そうにこちらをうかがう狩屋くんに大きく首を縦にふるとありがとうございます、とまたまたニコッと笑ってくれる。それを見て私も微笑みを返し、半歩リードして歩き出した。6月のあたまともなると、朝早いこんな時間でも十分に暑い。特に、この雷門中の廊下は南側にあるからなおさらだ。心地の悪い熱気と湿気ただよう廊下に流れる沈黙を、取り払うように私は言葉をつむぐ。
「狩屋くん、今日から毎週水曜日、朝と帰りに保健当番を狩屋くんと一緒に担当する、羽丘です」
よろしくね、と言うと狩屋くんもこちらこそお願いします、と頭を下げてくれる。いい子だなあ。まあ、まだ二言三言しか話してないけど、でもオーラがなんかもういい子だもん、絶対いい子だよ、この子は。 転入生の男の子とペアで当番だなんてもし気が合わなかったりしたらどうしよう、なんて昨日、先生に紹介されたときは少し思っていたのだ。でも礼儀正しくて、物腰柔らかで、ニコニコしてて。心配する必要なんて全くなかったみたい。 これから毎週いっしょかあ。うん、けっこう楽しそうだ。仲良くなれたらいいなあ。
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そうこうしているうちに私たちは保健室に到着。ガチャリとその鍵穴に鍵を差し込んで回し、扉を押し開くと蒸した空気が私たちにむかって押し寄せてきた。 床に荷物をおろした私は真っ先に壁にある冷房のスイッチを押しにいく。設定はとりあえず一番涼しい温度に。クーラーをどれだけ効かせても文句を言われないのは保健委員の特権だ。私の荷物の隣に自分のカバンを下ろした狩屋くんは、冷房をいれた様子の私を見てわざわざ扉を閉めてくれる。なるほど、狩屋くんは気もよく利く、と。なんていい子なんだろう。
「保健室、広いんですね」。そう言いながら狩屋くんは少し不安げにあたりを見回す。そりゃあ、転校して来て間もないのにいきなり知らない先輩と仕事なんて任されてもなあ。そういえば顧問の先生は私に丸投げだったから、まずは仕事から教えてあげないと、なんて。二年生になって数ヵ月たつけど、はじめての後輩たちに先輩風を吹かせるのはやっぱりすこし快感だ。
「えっと、狩屋くん」 「はい」 「これから朝は、早く来た方が職員室まで鍵を取りに行ってね。帰りは鍵を閉めて職員室に返してから帰って、怪我人、病人が来たら慣れるまではマニュアルを見て適当な手当て。症状が重いときは職員室まで先生を呼びに行ってね。それから、その日の保健室利用者数やできごとなんかを日誌に書いて…仕事はそのくらいかな」 「うわあ、やること多いなあ」 「でも、基本的には自分が当番の日の朝と帰りに、保健室にずっといるだけかな。普通は二人組か三人組で、狩屋くんは私とペアだね」
じゃあ、多分まだまだ人も来ないし、お話でもしてようか。椅子を二個ひき、私が一つに座ると狩屋くんも向かいに腰かける。
「不安なことがあったらなんでもきいてね」 「ありがとうございます。保健委員、けっこう大変ですね」 「うーん、そうだねえ。狩屋くんはどうして保健委員会に入ることになったの?」 「夏休み中に転校する女子が保健委員らしくて、一人保健委員が減るからって半ば無理やり。この学校、全員が委員会に入んなきゃいけないって聞いて最初は驚きました」 「そうだよね、いきなり委員会に入れなんてね」 「でも羽丘先輩と一緒なら、保健委員も楽しそうです」
へ。口説き文句のようなそれに思わず目の前の狩屋くんへ目を向けると、狩屋くんはにっこり「どうかしたんですか?」とでもいったような顔で首をかしげる。うわあ私、自意識過剰だった。こんなおとなしそうな子が出会って間もない先輩を、それも私なんか口説こうとするなんて、そんなわけないじゃないか。不思議そうなきらきらの瞳を向けられた私は「あ、えと、うん」なんてしどろもどろな答えしかできなかった。顔、たぶん真っ赤だ。
その後、さっきの恥ずかしさを忘れたい一心からいつ転校してきたの、とかなんの部活に入っているの、とか他愛もない世間話を一方的にふっていれば、訪問者が一人もないうちに予鈴がなった。そろそろ教室行こっか、と私が荷物を持って立ち上がれば狩屋くんもそれに続く。私たちと入れ替わりで先生が来るから鍵も電気も冷房もこのままで…と。
「よし!じゃあまた放課後にお仕事がんばろうね、狩屋くん」 「はい」
二人で階段をのぼり、二階の教室へ向かう狩屋くんと別れて三階へ行こうとすると後ろから「おつかれさまでした」と聞こえてきた。階段の上から振り返ると、笑顔で手をふってくれる狩屋くん。 …うーん、なんだか放課後が楽しみだ!
「あ、霧野おはよー」 「おはよ羽丘。保健委員か?おつかれ」 「霧野も朝練おつかれ。今日ね、転校生の子と当番だったんだよ、それもサッカー部!」 「……まさか」 「狩屋マサキくん、霧野の後輩でしょ?」 「………」 「霧野?」 「ん、ああ……羽丘」 「なに?」 「なにかあったら、オレに言えよ」 「え?あ、うん」
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霧野と狩屋くんの所属しているサッカー部の練習は、水曜日以外は一週間毎日あるらしい(水曜日は自主練だと言っていた)。大変だなあ。しかもその水曜日まで委員会の仕事。 なにもそれは、サッカー部だけの話じゃないんだとは思うけど。図書委員や放送委員などほとんどの委員会は当番があるから、練習の厳しい部活の人はみんな各々の都合のいい日に委員会を入れているはずだ。よく体力もつなあ。 ……なんて考えている私は現在、保健室に向かって疾走中である。 担任に雑用を押し付けられて、本当なら保健室にいなければならない時間を優に回ってしまっている。 階段をかけおりて保健室の前にたどり着き、一息ついてから静かにドアを押し開く。殺風景な部屋の真ん中に、つまらなさそうに座るナイルブルーが見えた。
「狩屋くん…」 「あ、羽丘先輩」 「遅くなってごめんね、先生にクラスのこと頼まれちゃって…誰か来た?」 「はい、野球部の人が一人。擦り傷だったので手当てして帰しました」 「えっ」
やり方とか、器具の場所とかわかった?困ったことなかった? おろおろと矢つぎ早に質問を浴びせる私に狩屋くんは大丈夫ですよ、と笑顔で答える。
「ご、ごめんね…!」 「やだなあ、気にしないでください」
狩屋くんは両手を否定するように立ててそう言うけれど、それでは私が納得できない。狩屋くんは保健委員の仕事どころか、この学校にだってまだ不案内なのだ。勝手も何もわからないのに、きっと不安だっただろう。トラブルがなかったみたいだからよかったようなものの、そんな後輩に任せきりにしてしまうなんて、本当なら私がしっかりしなくちゃいけないのに。 担任の頼みなんて断ればよかったと今さらながら後悔の念に襲われる。
「本当にごめんね、狩屋くん」 「先輩が悪いんじゃあないじゃないですか」 「でも、私…」 「……じゃあ、センパイ?」
突然あたまの上に温かい感触。申し訳なさにうなだれた私に乗せられたのは狩屋くんの手だった。同時に、さっきまでの柔らかい声色とは打って変わった悪戯っぽい声で狩屋くんが言う。
「先輩、オレ、一人で大変でした。だからおわびってことで先輩の名前、教えてください」 「え、私?私は羽丘だけど…」
おわび?名前が?私の?ていうか忘れられてたの?さっき呼ばれた気もしたけど?きょとんとしながら答えると、狩屋くんにぷっと笑われた。
「あはは、違いますよ。それは分かってます。知りたかったのは先輩の下の名前です。それくらい分かるじゃないですか…ぷっ、あはははは」
なんだか分からないが、狩屋くんに大層ウケられてしまった。おなかを抱える狩屋くんに「羽丘奈月ともうします」と名乗り出ると、さらに笑われる。
「あっははは…やっぱ先輩おもしろいや。じゃあ、奈月センパイって呼ばせてくださいね」 「へっ」 「遅れてきたのは奈月センパイですよ」 「う、はい…。これからよろしくお願いございまする」 「……センパイかーわい」
一瞬、狩屋くんの黄色い目がギラリと光ったような気がしたのは、たぶん気のせい。
/1:リジー・ネイヴの鋏 title by みずうみ 120421
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