沸いた鍋に放り込まれたみたいだと思った。
 他でもない、この暑さのことだ。憎々しいほどに雲の見当たらない空で、上から照りつける太陽。それを反射するコンクリート。温まった空気のせいで、部活で火照った身体に熱がこもる。
 夏休みの連日の練習でしごかれて疲労と痛みのたまった身体にこれほどこたえるものはない。シャツの襟元を広げて扇ぐと風が僅かに入ってくるが、いかんせん気温が高いので、大して涼しくなりもしない。
 まるで、沸いた鍋に放り込まれて湯がかれている、野菜やら何かみたいだ。
 真っ昼間の静まり返った住宅街にはおれの気だるそうな靴音と、それとどこかから聞こえてくるセミの鳴き声だけが響いている。それを聞いていると心なしか、柔道着とタオルと水筒くらいしか中身のないエナメルがいつもよりもやけに肩に沈む気がした。身体の横でぶらぶらと揺れ、さっきからおれの脚をバシバシ叩くそれは、黒地に赤のラインの物を選んだせいで、ばかみたいに熱い。
 せめて水があればと思うのだが、家を出るときは氷と茶で満杯にしたばかでかい水筒二本も、今は一滴だって残っちゃいない。
 こういう日に限って、放浪する親父とも、図書館へ行く竜持ともすれ違わない。住宅街の真ん中に、自販機だってあるはずもない。
「あっちぃ……」
 今日で何度目かわからない一言が思わず口を出る。掠れた音は、また地面へ落ちて行こうとした。
 しかし、おれの発した言葉は途中でかき消された。かん高い声がおれの後ろの方で上がったのは、まさに丁度その時だった。
 「あっ、降矢!?」。フルヤ、おれのことだろうか。振り向くのも億劫でそのまま歩き続けていると、背後から自転車の走る音がみるみる近づいてくる。太陽を照り返して勢いよくおれを追い抜いた銀色の車体は少し前で止まったかと思うと、乗っていたセーラー服が跳ねるように自転車を飛び降りた。
「やっぱり降矢だ! ひどいなあ、止まってくれてもいいのに」
 久しぶり、卒業式以来だね! はにかんで笑って、温い微風に制服をなびかせたそいつは言った。
 「……みょうじ?」「そうそうみょうじ! みょうじなまえ」。誰かと思ったら六年のときの同級生だ。そういえば、おれのことを名字で呼ぶのはおれの知り合いにこいつくらいしかいなかった、とにわかに思い出す。
 周りはみんな虎太や竜持と区別するため下の名前で呼ぶのにこいつだけは、「そうやって呼び始めちゃったから」とかなんとか言うよく分からない理由でどんなに紛らわしくてもそう呼ぶのをやめないのだ。
 セーラー服、もといみょうじは手で顔を扇ぎながら、何気ない仕草で自転車をその場に止めた。
 げ、この炎天下で足止め食らうのかよ、と思わなかった訳ではないが、面倒なことになりそうだから口にはせずにおく。
「降矢のことだからさあ、忘れられてるかと思っちゃった。覚えててくれたんだ」
 制服の胸元をつまんでパタパタと風を送り込みながら、みょうじはあっけらかんと笑った。
「そんなに忘れっぽくねーよ。みょうじとはけっこー話したし」
「えへへ。そうだ、中学では柔道やってるって聞いたよ」
「ああ」
「すごく強いんでしょ? ウチで柔道部のマネやってる友達がね、桃山中の降矢って人がかっこいー! って。ぜったい降矢だ、って思ったの」
「ふうん」
「みんな元気? 降矢たち」
「おー」
「スペインだっけ? 遠いよねえ」
 おれの短い相槌を所々はさみながら、みょうじは話をあれやこれやと続ける。
 こいつは並よりも人懐こいとしても、女子ってのはどうしてこうもみんな喋るのが好きなのか心底不思議だ。だが、おれが返事を返すそのたびに嬉しそうな笑顔を向けられて悪い気もあまりしない。
 みょうじの額を滴がツウと流れ、顎を伝って地面へ落ちた。みょうじが大げさに身振り手振りすると、制汗剤か、石鹸の匂いがふわりと香る。
 お前、よく喋るところ変わってねーのな。そう指摘するとみょうじはにへへと笑った。別に褒めてねーけど。でも、そういえばこういうところ嫌いじゃなかったんだよなあ、なんて不意に思い出す。他にも、時折目蓋を伏せると際立つ長い睫毛とか、所作の端々に見える品の良さとか。
 そういえばね、降矢、あのね、降矢? 聞いてる? みょうじが何度も繰り返しておれを呼ぶ。柑橘類みたいに明るくてどこか甘い声だ。それを聞いてると、耳慣れた三文字が特別な響きを持つ気さえしてくる。
 何だかんだでおれ、こいつのこと結構悪く思ってなかったのかもなあ、と柄にもなく少し思った。
 燦然と楽しげに笑うみょうじの顔をまじまじと見つめるおれを気にもとめずにみょうじは、ペラペラ口を動かし続ける。ころころ変わる表情は見ていて飽きない。
「……あとねー、私たちの小学校からうちの中学に行ったのは鈴木とかー、佐川とか。そうそう、佐川は卓球部なんだけどね、こないだの練習試合で隣の学区の……ああっ!」
「な、なんだよ」
 ぺちゃくちゃと口を動かし続けていたみょうじが唐突に大声を出した。こんな頼りない身体のどこから出るんだって程の、すっとんきょうな大声だ。
「あっ、そうだ!」
「何?」
「降矢、炭酸いける? てかいけるよねうんいける」
「はぁ? 別に飲めるけど」
「ちょっと待ってね」
 みょうじは訳の分からないおれをほっぽって、自転車の荷台につっこんであったスクールバッグをごそごそやり出した。
 「はい!」。やがて俺の鼻先に突き出されたのは一枚のビニール袋だった。
「何コレ」
「うんとね、じゃーん、サイダー!」
「はあ」
「さっきそこのコンビニでオマケが欲しくて買ったんだけどね、わたし、炭酸飲めなくて」
「じゃあ買うなよ」
「うーん、そうなんだけどね」
 みょうじがあははと声を上げるのに合わせて、中身に貼り付いてペットボトルの形を浮き上がらせた白いビニール袋がガサガサと音を立てる。
「そーゆーことだからさ、あげるよ、っていうか、もらって!」
「おー……ま、いいけど。サンキュ」
「うん、こっちこそありがと」
 おれが手を出して受けとると、みょうじは口元に綺麗な弧を浮かべた。
「ほらこれ、かわいいでしょ」
 みょうじがスカートのポケットから取り出して得意気に掲げたケータイには、動物のキャラクターを型どった、いかにも女子が好きそうな感じのストラップが一つ付けられている。これが例のおまけか。
「ふーん、いいんじゃねーの」
「でしょー」
 みょうじが得意気に胸を張ると、肩にかかっていた髪がさらりと零れた。指を伸ばしたい衝動に駆られる自分がいることに気付き、即座に自制した。
 ニコニコとそのキャラクターについてなんだかんだ話しているみょうじはそんなことには気付かない。ただ俺だけが、なんだか気まずい気分にさせられる。
 喉がごくりと鳴った。
「そうだ降矢、髪短くなったよね! おかげでちょっと人違いかと思っちゃった」
 みょうじがじっと低いところからおれを見上げる。その丸い瞳に見つめられると、何故か居たたまれない。思わず襟足に指を絡める。
「あっ、あと背伸びたよねえ、びっくりしたよ」
ずるいなあと言ってみょうじが唇を尖らせる。尖らせて、嬉しそうに笑う。
 卒業から半年近くも経ってるんだ、伸びるに決まってるだろ……。そう思うのだが、何故かそう口にすることができない。
 かわいいと思っていた。目の前のみょうじに対して、いつのまにか。
 女子に対してそんな感想抱いたこと、今まであったっけか。覚えてる限り、ないぞ。にも関わらずその一語は、ふっと頭にわいてきたかと思うと、そのままこびりついて離れない。
 不意にみょうじがおれの目の前で笑っている、この一瞬がもったいなくなった。なんだこれ。ていうか、どうすりゃいいんだ。宛なくポケットに突っ込んだ指先がケータイに触れた。写真撮ればいいのか? いや、違うだろ。それなんか気持ち悪いし。
 そうか、連絡先、訊けばいいのか? は? なんで? なんでそんなこと? てかおれなんでこんな焦ってんだ?
しかし頭の中をどんどんと埋めていくクォーテーションマークをよそに、おれの口は勝手に動いていた。
「……なあ」
「ん、なに?」
「……やっぱなんでもねえ」
 とはいえ、いくら話だけ切り出したところで自分自身頭の整理がついていない状態では後も続かない。ふーん? と語尾を上げたみょうじは納得がいかないながらもそんなに気にしていないらしい。手に入れたばかりのキーホルダーを手のひらの上で転がして眺めている。まあ、そんなものなのだろう。
 それがこんなに気になるのがなぜか分からない、そんな自分にまた苛立ちを覚える。一体なんだって言うんだ、おれは。
「じゃあ私、そろそろ行こうかな。もうお昼もだいぶ過ぎちゃったし」
「ん、ああ」
 立てていたストッパーを外すと、みょうじは自転車に引きずられておれの方へよろける。しかし、慣れているようですぐに持ち直すと靴でペダルを調整しながらもう一度視線を合わせ、行き処を失ったおれの左手など気にも止めずに屈託なく笑った。
「呼び止めちゃってごめんね、降矢。そうだ、それきっとぬるいから、冷やして飲んでね!」
 じゃあね、楽しかったよ、ばいばい! みょうじは自転車に飛び乗ると、最後に「またねーっ!」と叫んで走り去ってしまった。またっていつだよ、よっぽどの偶然だな。
ズボンのポケットの中で指先に触れるケータイは気温のせいか、はたまたおれの体温のせいかじんわり熱い。
 みょうじの白いセーラー服は糸遊にのまれ、あっという間に見えなくなった。辺りには再び微かな蝉の声だけがこだまする。思い出したように額から汗が吹き出した。同時に、喉の渇きや、疲労感、関節の痛みなんかも帰ってくる。どこかで、騒ぐ子供の楽しげな叫び声があがった。
「……帰るか」
 ペットボトルの栓を開けると、プシュッと小気味いい音がした。白い泡が、溢れる寸前で勢いを失い消えていく。口に含むと舌の上でピリピリ弾けた。遅れてやってくる薄い甘さとレモンの味をかき消すようにもう一口流し込む。前髪の先に滴った汗が目の前を落ちていった。

「……ぬりぃ」


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