※神童夢
※甘くない


「次の時間のC組男子の体育、外でサッカーだって」
前の席のエリから小さく折り畳んだ手紙が回ってきたのは、古文の授業中のことだった。たんたんと教科書を読み続ける先生の声にまどろんでいた私はその小さな文字を見て、がたっとわずかに椅子を鳴らした。手紙をもう一度読み返してみる。C組男子、体育、外。
エリが後ろを振り向いて、「やったね」と私にささやいた。うん、とうなずくと、「そこ、どうかしたの」と先生の声が飛ぶ。手紙の意味がまるでない。
んでもないでーすと声をそろえて、再び教科書を読み始めた先生をしり目に、左側を向いた。三々五々に走る下級生の白い体操服が、グラウンドにはためいている。
初夏の風が心地いい。


神童くんのサッカーはなんというか、華麗だ。走ったりだとか、ボールを蹴る、止めるといった動作のひとつひとつが、どことなく他の人のそれよりも、優雅で、上品だと思う。
育ちがいいからサッカーをしていても品があるのかなあ、とは私の推測だ。もっとも、私が神童くんに恋をしているからそんなふうに見えるのかもしれない。というか、たぶんそうだ。エリはエリで「霧野くんのドリブルって、なんか綺麗」と、うっとりした面もちで私と似たようなことを言っていた。
だって、特別なものは特別だ。運動の苦手そうな男子とパス練を組んで優しくリードしている神童くんのまわりは、そこだけきらきら輝いているみたいだ。
「かっこいいなあ」。思わずつぶやくと、同じように左を向いてグラウンドを見下ろしていたエリもこくこく首を振る。きっとエリは霧野くんしか見ていないのだけど。やっぱり神童くん、かっこいいなあ。
落とした消しゴムを拾って、笑顔で渡してくれるところとか。先生に当てられて答えられずに座ったとき、口の形で伝えてくれる「どんまい」とか、教室の隅に落ちてた誰かのハンカチをそっと棚の上に乗せてあげてた後ろ姿とか。神童くんのそんな優しいところに、私はいつのまにか恋をしていた。
肩がふれあったり、おはようの挨拶ができたり、そんな小さなひとつひとつが無性に嬉しくて、心臓の刻むテンポは加速する。その度ああ、好きだなあとしみじみ思う。
話はするけど、仲がいいわけではない。私はピアノやサッカーに詳しいわけでもないので、共通の話題になるようなことはあんまりない。ましてやかわいいわけでも、頭がいいわけでもなく、外見から特技性格にいたるまで全てが普通の範疇を出ない私だけど、一途に思い続けてたら、もしくは積極的に仲良くなろうとしてみたら、あの神童くんとだってお付き合いできるかも……なんて希望的観測は、持とうにもなかなか持てるものじゃない。どこにでもいる女生徒Aの私と、かみさまに愛された神童くんとじゃとても釣り合わないって嫌でも気付く。
だけどそのはずなのに、放課後、練習しているサッカー部をとりかこむ女の子たちを見るとなんだか複雑な気持ちにもなるし、また神童くんが告白を断ったんだって、なんて話をエリから聞けばほっとため息をついてしまう。口ではなんて言ったってあながち私も、もしも、もしかしたらを期待してないわけでもないのだ。
いずれ彼の隣を歩く女の子が現れるとき、それがわたしだったらいいのになあと、淡く夢見てしまう程度にはわたしだって乙女だ。
期待してしまうのが、女の子なのだ。


「あれ、みょうじさん」
放課後、音楽室の前を通ると、ふいに甘いテナーで声をかけられた。振り向くと、神童くんが引き戸を開け放った音楽室で一人机に向かっていた。
「は、……はいっ」
おもわず、腕の中のスケッチブックを胸に抱いた。頭のてっぺんから背中に芯を通されたように背筋が伸びる。そんなわたしを見て神童くんは、眉をさげて「驚かせたみたいで悪い」とほほえんだ。
「ふと横を見たらちょうど通りすぎるところだったから、つい。もう誰も残っていないかと思っていたんだが」
「そ、そっか」
密かに胸に手を当てると、手のひらが小刻みに押し返される。ばくばく、耳の奥に鈍く響く鼓動を数えると、いっそう緊張が高まっていく。
居残りして、よかった。気付くと私はおぼつかない足取りで神童くんが微笑む音楽室の中へと足を踏み入れていた。神童くんとこんな近くで話すのなんて何度目だろう。夢、みたいだ。無風でもふわふわと空気をはらむハニーアッシュの髪の一筋一筋が、夕日を受けてきらきら光っている。頬にまつげの影を落として笑みを浮かべる神童くんは、ひょっとして絵画の中から抜け出してきたんじゃないだろうか。
(お菓子みたいな人……)
ふわふわのマシュマロ。豪奢で繊細なタルト。バターが香る焼きたてのパイ生地。フォークを突き立てたら割れてしまうクッキー。
神童くんを見ていると、そんなものを思い出す。
うつむきながらちらちらと神童くんを盗み見るわたしはさぞ挙動不審だったことだろうけど、そんなことには慣れているのか神童くんは気にもとめない様子で手元の楽譜にさらさらと何かを書きたしたあと、顔を上げてそうだ、と言った。
「あの、みょうじさん」
「な、なにかな」
「もし時間があれば、一曲聞いてくれないか? 今書いた曲なんだが、誰かに聞いてもらいたいと思ってたんだ」
「えっ……わたし、意見とか言えないと思うよ?」
「いや、聞いてもらえればいいんだ」
神童くんはピアノの横の椅子をひいてわたしを座らせ、グランドピアノの蓋を持ち上げた。
神童くんのしなやかな指が鍵盤の上をなめらかに滑る。
粒のそろった繊細な音が奏でる旋律は、物悲しい短調だけどどこか甘い。甘いけど、凛としていて、そして優しい。まるで、神童くん自身みたいだと思った。
思慮深くて、誰も漏らさずいつだってみんなのことを気にかけている優しい人。難しいこと、背負わなくていいもの、全部一人で抱えこむ強い人。甘い笑顔をこぼす人。
神童くんの真剣な横顔がオレンジに染まる。
……あ、あ。どうしよう。わたし、わたし。
「ふう……ありがとう、聞いてくれて。やっぱり、こことここは直した方がいいな。誰かに聞いてもらうと改善点が見えてくるよ。みょうじさんのおかげで助かったよ」
「そ、それならよかった。あの、メロディーが心に響いて力強かった、よ。旋律が優しくて、綺麗で。神童くんのピアノも上手だし、とっても。とっても素敵な曲だった」
「そうかな、そう言ってもらえると嬉しいよ」
窓から吹きこんだ風がクリーム色のカーテンを揺らし、わたしと神童くんの間をぬけていく。神童くんの柔らかい笑顔がウェーブのかかった髪に隠れる。
好き。好きだ。わたし、神童くんのことが好きだ。どうしようもないくらい、好き、好き。神童くんのことが好き。
「……ぼーっとして、どうかしたのか?」
「っ、なんでもない!」
砂糖漬けにしたさくらんぼみたいな瞳にわたしの顔が映る。どうしてこの人の目はこんなに澄んでいるのだろう。どうしてこんなに温かくて、どうして、どうして。
「おっと……もうこんな時間か、そろそろ帰らないとな。ありがとうみょうじさん、聞いてくれて。もう遅いし、みょうじさんさえよければ家まで送っていくが……みょうじさん?」
スカートを握りしめたまま棒立ちするわたしの顔を神童くんが覗きこんだ。
楽譜を抱えたのと反対の腕が、優雅にさしのべられる。わたしは、その手をとってもいいのかな。「みょうじさん?」。見上げた先の神童くんが首をかしげる。わたし、わたし。
「神童くん」

「わたし、神童くんのことが好き。ずっと、好きだったの」


今は、サッカーに専念したいんだ。
神童くんが口にしたのは、予想通り、わたしの想いを断る言葉だった。
わかってたつもりだったけどやっぱりショックは大きくて、でも申し訳なさそうな顔をする神童くんを前に、ああやっぱりな、と幾らか冷静に考えてる私もいた。わかってた。想いが堰を切って、一音目が口をついたその瞬間からずっと覚悟してた。
気持ちが溢れ出して止まらなかった。片想いだって、付き合えなくたって、口にしたくてたまらなかった。ただそれだけだった。だから、目もとからは今にも涙がこぼれ落ちてしまいそうだけど、心だけはすっきり……すると、思ったのに。
「…………ごめん」
神童くんは、うつむいて小さく、謝った。涙がまぶたの裏へ消えていった。
夕陽に照らされながら苦しそうに表情を歪める神童くんの姿が、まぶたに映って、ホワイトアウトしていった。
かばんをつかんで廊下を駆けながら、今度こそわたしは泣いていた。
神童くんは謝った。きっと、わたしの好意を拒絶することを。わたしを悲しませることを。ただ一年間クラスを共にしたというだけのわたしが、ただ勝手にした告白を断ることに、謝った。誰よりも辛そうな顔をして。
神童くんは優しいのだ。いつだって背負わなくていいことに責任を感じて、誰よりも他人のことを考えてる。
優しすぎるよ。今まで告白を受けたことなんてきっと数多もあっただろうに、彼はそのたび、あんな顔をして断ってきたのだろうか、心を痛めてきたのだろうか。
神童くんがどんな気持ちで告白を断っているのかなんて、考えたこともなかった。
考えようともしなかった。
頭をよぎるのは後悔ばかり。あんな、神童くんを傷つけてしまうだけの言葉、自分が満足するためだけの言葉、言わなきゃよかった。
彼が胸を痛めてしまうこと、なんで神童くんを傷つけなきゃ気付けなかったのだろう。
最初から、わたしじゃ神童くんと釣り合うわけがなかった。
あんなに優しい人とわたしが、付き合えていいはずがなかったのだ。
涙の味は塩辛かった。

/130609
ほどけないリボンなら尾を切り落としてしまえばいい

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