鳴り続ける、ノイズのような雨音で目が覚めた。ばっと顔をあげると、わたしは薄暗い教室の中にいて、6限の授業中からずっと寝ていたんだ、としばらくしてから理解する。今、何時だろう。ポケットからケータイを取り出してサブディスプレイに光をつけると、午後六時ちょっと前を表す数字がにじんで見えた。軽く数時間は眠っていたみたい。画面を見ると、メールが一つ来ていた。いつも一緒に帰っている友達からのもので、あんまり気持ちよさそうだったから起こさなかったよ、最近寝不足だったみたいだし。といったことが書かれている。よく見てるなあ、あの子。たしかに最近は、テストが近いせいであんまりよく寝られていなかった。かなり頭がすっきりしたかも。のびをしながら、何の気なしに窓を見た。……そうだ、雨が降ってるんだった。掃除当番が開け放していったらしい窓から雨粒が入り込んで、木の床をびしゃびしゃと濡らしている。そういえば今日から私たちの班が当番だって、前の班のみょうじさんが先週、わざわざ教えてくれなかったっけ。もしかしたらわたし、班員の子に声をかけられても起きなかったのかもしれない。掃除をさぼることになっちゃって、悪いことをしてしまった。反省して、ため息。深呼吸すると、肺の奥まで雨の匂いが流れ込んできた。しっとりと濡れる肌、冷える指先、芯まで凍えるような寒さ。どれも普段はあまり好いたものではないけれど、真っ暗な教室の中、一人で座っていると、なんだか悪くないように思えてくる。一枚壁を隔てたところで鳴っているような(事実、そうではあるのだけど)雨の音を聞いていると、少しずつ気分が高揚してくる。紫がかった灰色にぼんやりと光る窓が綺麗だと、なんとなく思った。
 リノリウムの廊下を一人で歩く。雨が吹き込んだ様子はないけれど表面はうっすらと濡れていて、踏みしめるたびにきゅっきゅと鳴る。窓の外では相変わらずザーザーと雨の音がしていて、真っ暗な中、無機質な白い蛍光灯の照らす廊下には、わたしの足音だけが響いていた。さっきまでの高揚感はどこへやら、おもむろに不安な気持ちが広がってくる。今から嫌なことがあるわけじゃないし、何かが怖いわけでもない。それでも上靴を鳴らして歩をすすめるごとに、わたしの心は得体のしれない灰色に侵食されていく。校内に人の気配は無い。部活は停止期間に入っているし、きっとみんな、雨が降りだす前に帰ったんだ。今日は朝から大雨の予報が出ていた。やにわにブルルと身震いする。……早く帰ろう。
 まだ寝ぼけていたのか、他の人のと間違えながらも自分の靴箱を開くと、ここにも律儀に友だちの手紙が入っていた。わたしは靴を履き替えて、奥の方にある折り畳み傘に手を伸ばす。少々砂をかぶったそれは、布地が変に折れてしわくちゃになってはいるけど、使う分に問題は無いだろう。開いてみて確認し、お母さんにメールを打ってから帰ろうと、もう一度閉じた。その時、不意にガタッと音がした。思わず肩を跳ね上がらせてしまう。ああなんだ、わたしの他にも残っていた人がいたんだ。一瞬遅れて理解して、だけどなんだか隠れるように、靴箱の陰から様子をうかがってみた。
(あ、降矢くん……!)
 目だけ出すようにして覗くと見えたのは、赤いラインの入った運動靴。降矢くんだ。特徴的な柄だから、覚えていた。降矢くんは靴をはきながら、これまた赤い線のはいった黒い折り畳み傘をポキポキと広げている。収まりかけていた鼓動がまた、一気に速まった。どうしたんだろう、降矢くんもどこかで眠っていたのだろうか。それとも、勉強してたのかな。ううん、そんなこと、どうでもいいんだ。そんなことよりわたしは……。ごくり、ツバを飲み込む。
 降矢くんとは去年、一年生の時におなじクラスだった。初めて彼の姿を見たとき、わたしは降矢くんに一目惚れした。降矢くんのまわりはなんだかキラキラ輝いていて、自分とは住む世界の違う人だと、ぼんやり思ったのを今でも覚えている。だけど、だからこそ、そんな降矢くんを一瞬で好きになった。でも、ごくごく平凡で、そのうえ積極性もないわたしが降矢くんと仲良くなれることもなくて、あっというまの一年後、わたしは彼と違うクラスに。用があれば普通に話すし、機会があれば談笑だってする。だけど、特別な想いなんてない。そういうのをなんて言うんだろう。答えは簡単、クラスメイトだ。クラスメイトって、そういう関係だ。わたしは降矢くんの、ただの元・クラスメイトだ。自覚すると、胸がきゅっと縮む。かっこよくてなんでもできる降矢くんは当然みんなの人気者で、わたしみたいな普通で、告白する勇気もないやつには、とても手がとどかない。でも、でも。傘を持った手に、少しだけ力が入る。用があるなら、話しかけてもいいよね。知らない人じゃ、ないもんね。「一緒に帰らない?」って……声をかけてみても……。ゆっくりと、口を上下に開いてみる。だけど、制止をかけたのは手の中の傘だった。いきなりなんだ、って、思われないかな。口にこそ出さなくても、気持ち悪いって思わないかな。もし、わたしか降矢くんが傘を忘れたのなら。「いっしょに帰ろう」って言ってもおかしくなかった。現実はそうじゃない。彼女でもないのにでしゃばりすぎかな。だいたいずっと静かにここに潜んでいただなんて気味悪い。憂慮は次々と頭をかけめぐり、わたしのあたまをグワングワン鳴らす。どうしてわたしは置き傘なんて持っていたのだろう。これが無ければ、降矢くんに話しかけて、一緒に帰ることだってできたかもしれないのに。……一緒に帰ることは、今だって勇気を出せばできるかもしれないのだけど。でもやっぱり私には……。だけど、こんなチャンスがめったにないのも確か。いつも人に囲まれている降矢くんが、今は一人きりなんだ。臆病者なわたしはいま声をかけなかったら後悔するし、それに、わたしは、降矢くんが好き――。
 意味もなく潤んできた瞳をゴシゴシとこすり、大きく息を吸う。当たって砕けろ、だ。どうか声が裏返りませんように。あの、降矢くん――。
「あ、凰壮だ!」
 一瞬、自分の声かと思った。でも違う。わたしの声はこんなに朗々としていないし、それに、凰壮、なんて呼び方もできない。この声は、
「お、みょうじじゃん」
 みょうじさん。わたしと、同じクラスの女の子。去年も一緒だったけど、あんまり話したことはない。だからあんまり知ってるわけじゃないけど、かわいい子だなあというのが印象だ。お人形さんのような顔をしているのでも、プロのモデルさんみたいなスタイルをもっているのでもないけれど、なんだか、可愛らしい子だと思う。こういうのを魅力的って言うのかもしれない。
「どうしたの?一人で」
「おー、課題提出しなかったら呼び出されて居残りさせられた。そっちこそどうしたんだよ」
「私は先生に質問してたら遅くなっちゃって……」
 みょうじさんが靴をはきかえるために話しながらこちらへ来たので、私はとっさに近くのロッカーの陰に身をひそめた。目の前でみょうじさんが靴を履き替えている。いつバレてもおかしくない。口から心臓が飛び出そうだ。みょうじさんの粒のそろった声が一文字をつむぐごとに、わたしの鼓動は増していく。みょうじさんの表情は黒い髪がサラサラと隠してしまって、ここからうかがい知ることはできない。なんだか息苦しくなって、胸に手を当ててみる。
「あっ!」
 みょうじさんが、いきなり声をあげた。私は冷たい水を一気に飲まされたかのような気分になった。ドキドキしながらも、なんとか物音をたてないでこらえる。じっとしたまま、みょうじさんの言葉に聞き耳をたてていた。
「私、傘忘れちゃったみたい。おかしいなー、たしかに置き傘があったはずなんだけど」
 続いて、みょうじさんがゴソゴソとシューズロッカーをあさる音。わたしは息をひそめながら、この早鐘を打つ心臓の音が、金製のロッカーに伝わって、あたりに響いてしまうのではないかと杞憂していた。胸がバクバクと音をたてる。見つかりそうだからでも、降矢くんがそばにいるからでもない。わたしはさっき、たしかに見てしまったのだ。みょうじさんのロッカーには、折り畳み傘が入っていた。何かの間違い?ううん、違う。さっき、誤ってわたしの隣のロッカーを開けてしまったとき見た薄ピンクの折り畳み傘の隣には、いまみょうじさんがはいている小ぶりな茶色のローファーが、ちょこんときれいに並んでいた。傘の柄の部分には、丸っこい字で「みょうじ」とも書いてあった。寝ぼけてはいたけれど、絶対に見間違いではない。あんなに分かりやすいところにあって、見つからないはずもない。みょうじさん、嘘ついてる。いったいなんで。心臓が、今にも転がり出してしまいそうに激しく揺れる。胸の芯がじくじく痛み出す。なんだ、これは。時折吹き込む風はこんなに冷たいっていうのに、わたしの額には嫌な冷や汗がにじむ。
「マジ? どんくせーな、お前」
「凰壮うっさい!」
「……ったく、しょうがねーな、入れてやるよ」
「えっ、ホント!? ……あ、でも私の家、凰壮と反対方向だよ……?」
 透き通った綺麗な声が、しゅんとしたしおらしい雰囲気を見せたとき、わたしは刹那、すべてを悟った。みょうじさんの声をきくたび溢れる焦燥。みょうじさんの嘘に気付いてしまったときの、後悔とくやしさ、失望感。全部このせいだったんだ。それはきっと、さっきから薄々感じていたことでもあった。
 みょうじさんは、降矢くんのことが好きなんだ。
 そう分かってしまったとたん、どうして今まで気付かなかったのかが不思議なほど、みょうじさんの一挙一動、一言一句の端々に、他の人への対応とのわずかな違いとか、緊張とかが見えてくる。仲良くなかったはずなのに、おかしな話だ。だけど、女の勘をなめないでほしい。根拠も証拠もないけれど、なにをかけたっていい。
 みょうじさんは、降矢くんが好き。
 一度胸の中で言葉にしてしまうと、それはずんとわたしに重くのしかかる。
「それにうち、けっこう遠いし……」
「別にそんくらいいいよ。もうおせーし、家まで送ってやる」
「ほんとにいいの? やったー、凰壮ありがと!」
 身体のすぐ横を、たたたっとみょうじさんの駆けていく音がして、きゅっと身をちぢこめる。
 「おい、もっとそっち寄れ、濡れる」「凰壮こそ、もっとそっち行ってよ」「ふざけんな、これおれの傘だっつの」「しょうがないなー……あ。私、かさ持とーか?」「いいよ。こーいうのは素直に任せとけ」
 二人の楽しげな声は、どんどん雨音に消えていく。やがてその話し声が微かにも聞こえなくなったとき、わたしの目には涙が溢れていた。
 みょうじさんが降矢くんを好きなだけ、逆じゃない。二人は付き合ってるんじゃない。そんなことはわかっているけれど、嗚咽はどうしたってとまらない。
 みょうじさん、嘘ついちゃ、いけないんだよ。そんなことが言えるくらい子どもだったら、どんなによかったことだろう。
 傘を持ってないの。そう、嘘をつけるあの子とつけないわたし。
 正しいのはどっち。
 正解なのはどっち。
 こんなことを考えても、意味がないのはわかってる。
 もしもわたしが降矢くんに傘を忘れたと言ったなら、彼はわたしを、みょうじさんと同じように家まで送ってくれたのだろうか。
 こんなことを考えても、情けないだけだとはわかってる。
 それでもわたしは、チカチカ光る蛍光灯の下で雨のノイズに包まれて、自分を責めて涙を流さずにはいられなかった。



/ワンサイド・フェイト
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title by リラン

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