※誰得
後ろの方で、布の擦れ合う音がした。反射的に振り向くと視界の端で黒髪が揺れた。不本意ながらすっかり見慣れてしまった華奢な体躯が柱の陰に駆け込む。女の黒々した瞳がこちらをじっと見つめていた。 「…それで隠れたつもりか」 前に向き直り低く言うと、一瞬間があいてからタタタと軽い足音が近づく。やがてそれは俺のすぐ後ろでとまり、床に膝をつく気配を見せた。 「アルファ様、」 「私の後をつけるのはやめろと言ったはずだ」 語調を強めるも、女は僅かにすら怯まない。その代わりささやかな声で申し訳ありません、とだけ言う。 「去れ、二度と私の前に現れるな」 そのまま再び歩き出すと、女はもう追っては来ないようだった。 鬱陶しい女だった。何かにつけて私の後ろを追ってきた。その度に私は追い払うが、女はいつまで経っても懲りないようだった。 苛立ちを抑えられずカツカツと床に八つ当たる。照明を照り返して光る黒い無機質な床は、女がちょこまかと動くのに合わせて揺れる、長い髪の色を思わせた。不愉快な女だった。 角に差し掛かった時、私は後ろを振り返った。先程から、首筋にチリチリと焼け付くような視線を感じていたからだ。案の定、遮るものの無くなった廊下には、女の姿がぽつんとあった。 「貴様…」 つかつかと私が歩み寄る間、女はただそこに突っ立って居た。恐らく、これから私に怒鳴られることを予期していながらそうしているのだった。私は依り所の無い腹立ちを覚え、眼前の女を一睨みする。女はただただじっと見つめ返した。その双眸には、何かに酷く飢えた色が湛えられていた。私はなぜか居た堪れなくなって目線を逸らした。 「失せろ。二度と私の前に現れるな」 「…それは、できません」 女は珍しく口答えした。思わず女の白い顔へ目を戻す。女の髪が、さらりと鳴った。 「お願いします、お側にいるのをお許しください。私、アルファ様の後ろにいられるだけでいいんです。アルファ様のお姿を、見ているだけでいいんです」 ――気持ち悪い。 至って真剣な表情の女がそう言い切った瞬間、私の中に女への嫌悪感が溢れ出した。しがみつくような女の声が、酷く厭な物に感じられた。女の瞳は飢えている。 「失せろ」 喉から絞り出した三文字だった。目の前の女への言い様の無い不快感が、女の髪がはらりと舞うたび増していった。 「次は無い。今すぐ、私の前から、消えろ!」 最後は怒鳴り散らすようにして、私は踵を返した。 私の歩に合わせ、カンカンと靴が鳴る。床に映った照明が残像を為す。我ながら冷静さを欠いた振舞いだと思った。しかし私は足を進めた。脳裏に、女のあの目が、纏わり着くようなあの視線が、こびりついて離れなかった。――アルファ様。女のか細く小さな声が、ふと聞こえたような気すらした。 「アルファ様」 勢いよく振り向いた。私から十歩ほど後ろのところに、女がいた。 「…お前」 私が近寄る間、女は瞬き一つしなかった。 此方を見つめるその目が嫌いだ。私を見上げると同時に揺れた、その長い髪が嫌いだ。闇に融けてしまうその漆黒が、私の根元的な不快を煽るのだ。 「次は無いと言ったはずだが」。語調に強く怒りを滲ませる。 「はい、承知しております」。女は平坦な声で言った。 刹那、どこかでブチリと音がした気がした。ああ、これが理性の切れる音というやつか、と考える私は存外、冷静だったのかもしれない。そして我に返った時、私の拳は、女の顔をえぐっていた。 無意識だった。いや、婦女子に暴行を加えておいて、無意識では許されぬやもしれない。しかし私は無意識だった。 頬を赤く腫らした女は倒れ込み、低い位置からじっと私を見据えていた。女の顔は無表情以外の何物でも無いのに、瞳だけはなみなみと感情に満たされていた。それは紛れもない喜びの色だった。 背筋を冷たいものが滑り落ちる。女が赤い唇を縦に開くのが、なぜかゆっくりと見えた。 「アルファ様…」 「黙れ!一体何がしたいんだ貴様は!いつもいつも私の後ろで…気がおかしくなりそうだ!」 張れる限りの怒声をもって、私は女に怒鳴り、吐き捨てた。硬い壁に床に響いた声が、反響して耳元まで戻ってくる。余裕の無い声だと考える暇は無かった。女の黒い瞳が、私の声に熱を籠らせた。 「何故!一体、私の何がお前を、お前をそうさせるのだ!」 大声を出しきって肩で息をする。女はおもむろに立ち上がった。口の端をゆるやかに上げ、恍惚とした表情で言った。 「アルファ様の、そのお冷たいところが」
女のどこまでも黒く底の見えないこの瞳に、果ての無い恐怖を覚えた。
闇に融けてしまうその漆黒が、私の根元的な恐怖を煽るのだ。
/青脈 120629 title by みずうみ
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