夏のはじめ、自転車競技部の元ヤンキーがしおらしく私のもとを訪れた。

不機嫌そうな眉間の皺、片方だけ上がっている口の端、ポケットに手を突っ込んだまま猫背で私を見下ろす荒北先輩は、正直私と何も関係のないところで生きてきたはずだった。私はヤンチャもしないし華々しくもないし、代わりに地味すぎて浮いてしまうほどに地味でもなくて、普通の、本当に普通の女の子だ。怖い人とつるんだこともないし、ハコガク自転車競技部なんて強豪の旗を上げたこともない。

なのに。

「好きになっちゃったんだけどォ」
「……へ」
「俺と付き合ってくンなァい?」

平凡だったはずの日常の均衡が崩れる。荒北先輩は危うくて鋭すぎる。

私が荒北先輩と話したことがあるのはたった一度だけで、その時だって荒北先輩が気になったから声をかけたとか、そういうことではなかったのだ。ものすごいスピードで坂を下ってきた荒北先輩が私の目の前でバランスを崩し、はるか後ろで派手に落車したことがあった。驚いて慌てて、「大丈夫ですか」と声をかけたのが、最初で最後だったはずだ。
最後にはならなかったけど。

「無視ですかァ?」

無視したくてしているわけじゃない、の言葉を飲み込む。まだ脳みそが今の状況についてきてくれないだけで、返事はしたいと思ってる。答えはNOに決まっていた。口の中がからからに乾いて、上手く声にならないだけだ。
荒北先輩が私を好きになってしまったのはなんでなんだろう。十人並みな私を。

「なん、で……」
「俺がダッセェことに落車した時に、すごく速かったなんてバカなこと言ってきたから」
「……」
「ついでにかっこよかったとも言われたなァ」

だってそれは本当のことなのだ。荒北先輩だって気付く前に声をかけて、気付かぬままに正直な感想を言ってしまっただけ。走るために生まれた獣のようなその疾走感を、失いたくなかっただけ。

「返事はァ?」
「あ、あの私、そういう風に見たこと、ないです」
「フーン」

じゃあ問題ないなと言った荒北先輩は、私の手をぱしっと掴んだ。汗ばんだ手首に荒北先輩の手のひらを感じる。荒北先輩の手、マメだらけだ。かたくてざらざらしていて、運動をする男のひとの手をしている。

……問題ないって、どういうことなの。

「恋人がいないことは知ってるしィ、好きな奴もいないんダロ?」
「……そうですけど」
「で、俺のことが嫌いじゃないなら良くなァい?」

荒北先輩の論理は突飛もいいとこだ。嫌いじゃないなんて言っていない。恋人がいないことや好きな人がいないことを、なぜ知っているのだろう。もうむしろ問題しかないのに、私は荒北先輩の手をふりほどけない。
ごつごつした手のひらが私の手の関節を愛おしそうに撫でてくれて、そんな風に触られるのが本当に嫌ではなかったのだ。
こうしてみると荒北先輩は背が高い。ひょろりとしているようでその体躯は鍛え上げられたそれだ。連日の練習での日焼けか、手首のあたりからグローブのあとで白い。

「堅く考えなくていいけど真剣だからァ」
「あの、荒北先輩……私」
「ウンって言えヨ」

ああ獣だ。
森の奥深いところで獲物に歯を立てる時の狼の目だ。逆らえない。逆らうのが恐ろしい。
そして、少し、ほんの少しだけ、逆らえないことにしておきたい自分もいた。
逆らえなかったから付き合った、っていう言い訳を許してくれる目だ。

「……はい」
「ッシャ、言ったな」

とたんに荒北先輩の目が楽しそうにつり上がった。しまった、と思った時にはもう遅い。私の首根っこはもう狼に咥えられたも同然だ。
まだ振りほどけない手のひらが、私の手のひらまでするすると下りてきた。ぞわぞわする。私の手のひらの神経が、荒北先輩を待ち望んでいたみたいな感覚さえする。

「取り消しナシなァ」
「え、あっ、あの!私!」
「そのうち俺のこと好きンなるからいーダロ」
「へっ!?」

するん、と指が絡まり合う。これ、恋人繋ぎってやつだ。恋人同士がやるやつ、だ。
なんで私は嫌じゃないの?荒北先輩は怖い先輩だったはずじゃないの?私の平凡すぎる日常を脅かすひと、じゃ、ないの?

ぎゅうと絡んだ指になんだかどきどきする。
荒北先輩の手、大きい。

「付き合えた記念でベプシ奢ってやるヨ」

荒北先輩はなんて毒性が強いんだろう。


「 キョウチクトウ:危険な愛 」





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