名前はジャスミンの花が好きだ。俺は花について詳しいわけではないが、名前にとってジャスミンが、ただの白くて小さな花でないことは、よく分かる。いつから好きなのか、一体その花の何がそこまで彼女を惹きつけるのか、それは分からないし、知らない。ただ、俺と出会う前からその花を愛でていたことだけは知っている。

 名前と男女として付き合うようになってから初めての誕生日に、俺はふと思いつきで、名前に欲しいものは無いかと尋ねた。思いつき、というか、出来ることなら名前の一番になるようなものなりなんなりを贈ってやりたくて、聞いた。東堂や新開なら、もっと紳士的に立ち回って彼女を喜ばすこともできるんだろうが。俺はどうもそういった類が苦手だ。不器用と片付けられてしまえばそこまでの、何とも迷惑な性質。
 名前も最初はやはり驚いていた。それでも、俺の言わんとすることをすぐに理解したのか、優しく微笑み、答えてくれた。


「ジャスミンの花がほしいな」


 そう答えた時の名前は、何故かとても楽しそうだった。サプライズも何もない誕生日になってしまうことを申し訳なく感じて謝る俺に、彼女は優しく抱きつくばかりだった。まだあげていないのに、寿一君、と嬉しそうに俺の名前を呼ぶ名前はとても愛らしくて、彼女を大切にしたい気持ちが、さらにふわふわと育つようだった。



 誕生日当日に俺達が選んだジャスミンは、その名前に「ハゴロモ」という形容詞がプラスされていて、小振りの鉢に植わったタイプのものだった。花は白く、俺の知るジャスミンティーよりも遥かに甘く香る。せっかくだから二人で、と向かった花屋の店員が、うまくさし芽をすればふやすこともできますよ、と説明するのを聞いて、名前はすぐにこれにすると決めた。色つきのものやもう少し花の輪が大きいものもあったようだったが、名前は、すこしずつふやしていくから、と、その鉢を大事そうに抱えて微笑んでいた。
 
 別れ際、俺が持っていたジャスミンの鉢を手渡すと、名前はまた、その白くてつぶらな花にそっと顔を近づけて、幸せそうに香りを楽しんだ。その様子はとても様になっていて、名前も知らない絵画から拾ってきた鮮やかな一瞬のようにも見えた。


「大切にしなくちゃ」


 ね、と目を細めた名前は、本当に、目に見えない透明な羽衣を纏っているかのようで、その甘い香りにはどこにも綻びが無かった。ただただひたすらに美しくて、澄んでいる。この世で一番きれいな瞬間がここにあると、俺は本気で思えた気がした。世界の隅から隅までを知っても、きっと自分は彼女を抱きしめるだろうと、世界の半分も知らない俺は感じたのである。
 

 名前の言葉に、俺は何と答えたのか、自分で分からなかった。見惚れておかしなことを言ったことはどうやら確からしく、きょとんとした名前の口からころころと鈴のような笑い声がこぼれるのは、そのすぐ後のことだった。何とも言えない感覚に、とにかく今すぐに名前を抱きしめたい気持ちがあふれたが、彼女の胸にはさっき俺達で選んだジャスミンの鉢が抱かれていて、それは叶わなかった。
 変な寿一君、と薄く涙をためながら笑う名前に合わせて、小さく咲く花が揺れる。俺は生まれて初めて、その可憐なジャスミンの花に嫉妬をした。きっとこれから先も、そんな経験は二度としないだろうと思う。





 名前と左手の薬指を互いに飾りあった後、一緒に暮らすようになった家には、あの頃と変わらない甘い匂いがいつも漂っている。俺をちいさな嫉妬に駆り立てたあの小さな鉢は、陽当たりのいい出窓に座るようにして変わらず花を咲かせている。俺と違って器用な名前は、あの日教わった花のふやし方にも成功し、今はこの家の小さな庭にもジャスミンの花が咲き誇っていた。


「いい香りだな」

「ふふ、寿一君、毎日そう言ってくれるから嬉しいな」

「この香りがすると、そばに名前がいると分かる。だから好きなんだ」

「もうすぐ大きな大会でしょう?しばらくそばにいられないわ。…ごめんね?」

「…ああ」

「…さみしい?」

「ああ。少し」


 そう、と言ったきり、そっと俺に体を預けて窓の外を見つめる名前も、きっと寂しいのかもしれない。勝ってくる、と告げたいつもの言葉には、どうにも彼女の不安を拭うだけの力が無くて困る。いつまでたっても俺は不器用で、名前を待たせることと置いていくことしかできないように感じて、歯がゆい。


「待っていてくれるか」


 そう思わず口にしたら、名前がぱっとこちらを振り返った。いつかのきょとんとした、少し幼い顔。数秒の沈黙の後、やっぱり名前が俺の知っている可愛らしい声で笑うから、俺はたまらなくなって、もう邪魔する者のない彼女の体を抱きしめた。
 ふわりと香るジャスミン。ああ、こんなにも変わらず香り続ける愛情があっただろうか。


「寿一君は心配性ね。毎回聞くんだもん」

「ああ」

「大丈夫。私は、ついていくよ」

「…」

「今ね、玄関にマツリカ、育ててるの。それもジャスミンなんだけれど。だからね、帰ってきたらジャスミンティー、飲みましょうね」

「…ああ」

「絶対よ?」

「今から楽しみだ」

 
 鼻先をくすぐる名前の香りを、いつか俺も纏うようになるだろう。うっすらと色づいた彼女の髪を指で梳くと、陽の光が透って、少し未来のジャスミンティーがゆらりと、小さく波打ったように感じた。



「 ジャスミン:あなたについていきます 」





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