まだ蒸し暑い、夏の夜のことだった。
ねっとりとまとわりつく湿気がうっとうしかったのを覚えている。校舎へ向かう坂道を恨むのは何度目だっただろうか。次の日の朝一で提出しなければならない課題を教室に忘れた私は、その坂道をゆっくりと登っていた。一歩踏み出すたび、足が重くなっていく。
退部届けを出してから、二週間が経っていた。
左腕はまだ鈍くしか動かない。いつかは治ると言われたけれど、私の心も折れてしまった。成長していくチームメイトを見ていられず、元よりその程度の思いだったということにして、終わらせたのだ。
よくやく校門へ辿り着いたとき背後からなにかが近づいて来る音がして、思わず足を止める。それが車輪を回す音だと理解したときにはもう、その姿は間近に迫っていて、瞬間、夏の湿気も憂うつも、すべてが吹っ飛んだ。

「なに、いまの」

圧倒的な力強さはただただ前を見つめて進んでいく。私のしがらみを奪い去っていったその背中を、私は姿が見えなくなっても見つめていた。我に返ったときには頬は涙で濡れていて、蓋をしていた本心が溢れかえる。
私はあんな風に真っ直ぐに、前へと進んでいきたかったのだ。
辞めたくなかった、怪我が憎かった、受け止めることもできなくて逃げたけれど、どうしようもなく、悔しかったんだ。

それがもう半年以上前のことになる。課題と共に再び提出した入部届けは受理されて、左腕は以前のようには動かないけれどマネージャーとしてずいぶん頼られるようになったと自負している。
自転車競技部の綺麗な空色の自転車の持ち主が同じクラスの荒北くんだということは、すぐに分かった。だからと言って面と向かって行動を起こすことはできず、だから今朝、彼の下駄箱に一輪の花を入れたのだ。冬が終わりようやく花を咲かせた、勝手に学校の花壇の片隅で育てたスノードロップ。花言葉は、逆境の中の希望。それともうひとつは……

(やめておけば、よかった)

遠回しすぎる行動に意味はあるのだろうか。私だと分かることはないだろうけれど、どちらにせよ気持ち悪がられるかもしれない。後悔ばかりが浮かんで、ため息が止まらない。そして、情けないことに、花を回収しに行こうと決めた。今なら間に合う、放課後が来る前に。お弁当を食べ終えて、ちょっと用事、と席を立つ。なにやってんだろう、私。一方的であっても感謝くらい伝えたい、それすら叶わないのは意気地がないだけのことで。

「あれ」

荒北くんの下駄箱を開けるがそこには彼の靴しかなく。確かに今朝忍ばせたときにあったのもこの靴で、今日は体育もないから放課後まで見つかることはないと、思っていたのに。

「オレに死んでほしいわけェ?」

背後からの突然の声に、肩が跳ねた。反射的に振り向くと、ポケットに手を突っ込んで威嚇するように私を見る荒北くんがいた。

「そういう意味だろ、これ」

手には、しおれたスノードロップ。

「え、ちが、ちがいます」
「じゃあなんだヨ」
「それは、」

言えるわけもない。そもそも彼とこうして話しているということ自体についていけていない。あれから今日までの私の気持ちを乗せてくれると勝手に信じ込んでいた花も、どうやら頼りにならないみたいだ。ああそういえば、誰かに渡すと違う意味になるんだったと今さら思い当たる。

「知らないと思うけど、私、荒北くんに救われ、て」
「ハァ?」
「夏に、あの、真っ直ぐ走ってく荒北くんがかっこよくて、私のもやもや全部掻っ攫ってくれたから」
「……意味わかんねンだけどォ」
「えっと、だから、ありがとう」

初めて荒北くんの目を真正面から見つめた。言ってしまえば、なんだか簡単なことのように思えた。上手には言えなかったけれど、なにも伝えられずにいるよりはずっと良い。びくびくしていたのが嘘みたいに晴れ晴れして、余裕が生まれたのかふと疑問が浮かぶ。

「荒北くんてお花詳しいの?」
「ッなわけねェだろ!」
「え、でも花言葉…」
「アレはお前が一生懸命育ててっから調べたんだヨ!」
「え」
「あ」

荒北くんはしまったという顔をして、頭を掻く。もごもご口を動かすものの、言葉は出てこないらしかった。そんな風に頬や耳を赤くされたら、期待してしまう。きっと以前なら不相応だと思ったかもしれない。でも今は、荒北くんに救われた私は、自分の気持ちに素直になることもその気持ちを大切に誇ることも、できてしまうんだ。

「恋の、」

あ、声、震える。
俯きそうになって、ぐっと堪えた。

「恋の最初のまなざし、って意味も、あるん、だよ」

見開かれた目に映る私の顔はひどいもので、でも、私が本当に一番伝えたかったのは感謝じゃなくて。
荒北くんの手を取る。触れた瞬間、びくりと震えたけれど振り払われることはなかった。きゅ、と握り締める。彼の反対の手に握られたスノードロップが揺れた。

「すきです」
「……マジで言ってんのォ」
「マジだよ」
「そーかヨ、じゃ、まァ、なんだ、……よろしくネ」

握り返されたその感触は私のぜんぶを熱くして、ぶわっと吹き抜けた春の風も、この熱を攫ってはくれなかった。


「 スノードロップ:恋の最初のまなざし 」






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