「尽八」
名前を呼ぶと、数歩先でこちらを振り返った彼はどうしたと首を傾げて笑った。どうしたって、それを聞きたいのはわたしの方だ。ここへ呼び出したのは彼の方なのだから。
「アンタがどうしたの、急に呼び出して」
「ええと…別に大したことじゃないんだが」
「じゃあ帰る」
「いやいやいや!!!」
ちょっと待て!!!と叫んだ尽八にマフラーの裾を掴まれて、わたしはくるりと方向転換しようとしていた足を渋々元の位置へ戻す。学校の最寄り駅から歩いて十分、日も暮れかかる午後五時半になぜかわたしはよく知るクラスメイトの彼と向き合っていた。
「いや、あのだな…」
「なに」
「合格おめでとう」
「………ああ」
視線を足元で泳がせていた彼が、ゆっくりと顔を上げて口を開く。マフラーをぐるぐる巻きにしているわたしと違って黒のネックウォーマーだけの尽八は鼻の頭を赤くしていた。わたしはしんと冷たい空気を静かに吸い込み、それからうんと小さく頷く。
「尽八も先に決まってたんでしょ、おめでとう」
「ありがとう」
「良かったね、お互い」
「ああ……うん、そうだな」
ふっと白い息を吐いた尽八が頬を緩めて笑った。それを見つめるわたしはきっと、ひどく無愛想な顔をしているに違いない。わたしたちは高校三年生で、今は三月で、そろそろお付き合いを始めてから二年目を迎える頃で。…春からは、別々の進学先で。
「名前、怒ってるだろう」
「怒ってないよ」
「でも、最近あまり笑わなくなった」
「……気のせいだって」
「名前を誰よりも見てるオレが言うのだから間違いない!」
にひひと得意げな笑みを浮かべる尽八の前で、わたしはどうしても笑うことができずにただかじかんだ両手を握り締めていた。彼から県外の、しかもちょっとやそっとじゃ帰って来れないような遠い進学先の話をされたのは試験が全て終わった後だった。別に同じ大学が良かったとか、毎日会わなきゃ死んじゃうとか、そういうことを言いたいわけではないのだけれど。でも、だって、…どんな顔をして会えばいいのか、自分でも分からなくなってしまったのだ。
何も言えずに黙っていれば、困ったように眉を下げた尽八がぺたりとわたしの頬に触れて「あたたかいな」と目を細めた。
「…わたしは冷たいよ」
「はは、すまん……なあ名前」
「なに」
「おまえはオレと付き合ってからの二年間…いや、出会ってからの三年間だな」
どうだった?と、頬から手を離した尽八はわたしの目をまっすぐ見つめてそう言った。寒さで上手く動かない唇をぎこちなく開けば、どうしてか鼻の奥がつんと痛んでしょうがない。
「わたしは、楽しかったよ、尽八と出会って」
「うん」
「もう三年って、あっという間だったなあ…」
「そうだな」
「今までみたいにさ……すぐ会えなくなるの…さみしいなあ」
頬を伝った涙がオレンジ色のマフラーを濡らしていく。さみしい。口に出してしまうと堰を切ったように涙が溢れて止まらなかった。一生の別れというわけではない、他人から見れば馬鹿らしい感情かもしれないけれど。あと数週間で彼がここを発つと聞いて、わたしはどうしようもなく寂しかったのだ。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を伏せようとすれば、それよりも先にカーディガンの袖を伸ばした尽八の手がぐいと目元を拭っていく。まだぼんやり視界が霞む中、ぱちぱちとまばたきをしていれば不意に彼の腕が背中に回されてぎゅっと抱きしめられた。
「…尽八?」
「今までみたいに会えないとしても、何も心配することはないぞ」
「……うん」
「というか、これからは今までなんか比べ物にならないくらい楽しくなるから覚えておけ」
「あはは…うん、わかった」
「…………でもやっぱりオレもさみしいぞ」
「ぎゃ、ちょっ、マフラー濡らすの禁止!!!」
ぐすっと鼻を啜る音が耳元で聞こえたから慌てて離れようとするものの、背中に回された腕はびくともしない。うううと情けない声を上げて唸る尽八に苦笑しつつ、またこみ上げてきた涙にすんと鼻を鳴らしながら彼の肩に顔を埋めた。