猪野と同期



「猪野?」

報告書を提出し終えてロビーを通りかかると、見慣れた後ろ姿を見つけたので声を掛けた。一人がけの椅子にもたれたトレードマークの黒い帽子は、しかし振り向くことも返事をすることもなくただ黙っている。
不審に思って正面に回り込むと、猪野は腕を組んだままぐーすかと寝こけていた。

「寝てるし」
「……」
「ここにいるってことはこれから任務なんだよね?寝てていいのかよ猪野ぉ〜」
「……」
「ねえってば」

隣に置かれた椅子に座り、声を掛け続けてみたものの反応はない。目の前の彼はといえば、瞼を閉じてぐっすり夢の中だ。
寝不足なのか、めずらしくその目の下に隈ができていることに気づいて、私は肘掛けにもたれながらその横顔を見つめた。猪野は私のたった一人の同期だ。生まれながらに呪術師で、お家に伝わる大層な術式で戦う、非術師の家系からのし上がろうとしている私とは正反対の目の上のタンコブ。
学生時代は、人当たりがよく呪霊相手にも器用に立ち回る猪野のことが心底憎たらしかった。が、今となってはそんな対抗心も消え失せて、顔を合わせるたびに「私たちよくこの歳まで生き残れたなぁ」なんて、よく分からない愛しさみたいなものが宙ぶらりんのまま私の心に残っている。

「た〜くま」
「…………ナンデスカ」
「うわっ!?起きてんじゃん!!」
「オマエ声デケーよ……」

ぼやいたあとに、猪野はまだ眠いのか、ごしごしと何度か目もとをこすった。ちゃんと自分の部屋で寝なよ、なんて説教じみた言葉が口をつくより先に、猪野がこちらを向いて「なんか用だった?」とあくび混じりに聞いてくる。

「別に。ただこれから任務なのかな〜と思って起こしただけ」
「あっそ……ちなみに今日の任務はもー終わりゃーした」
「ふーん。じゃあ起こす必要なかったね」
「や、元々ここで寝るつもりなかったし。助かったよ、サンキュ」

オマエは?と視線を送られて、私も今日は終わり、と応えると猪野は「オツカレ」と言って笑った。その掠れた声は、寝起きだからという理由もあるだろうが、へらりと細められた目の下の隈も相まって疲れが滲んでいるようにしか聞こえない。
早く休ませてあげよう。すくりと先に立ち上がれば、もう行くのか?という何ともお気楽な声が飛んでくる。

「もう上がりなんだろ。久々に飲みにでも行かねぇ?」
「もう上がりなんだから、久々にゆっくり休みなよ」
「ええ?……あ〜、俺そんなに疲れて見える?」
「見えるねぇ」

私の返事に、目下の彼はポリポリと頬を掻いてバツの悪そうな顔をした。……そんじゃ、同期のありがたいお言葉に従いますか。グッと伸びをしてそう呟くと、猪野はじっとこちらを見上げてきたので、居心地が悪くなった私は「な、何よ」と片手を上げてその視線を遮る。

「や〜……オマエ優しくなったよな」
「はあ?」
「高専時代は刺々しかったというか……もしかして中二病だった?遅めの」
「違うわ!!……あの頃は単に猪野が気に食わなかったの」
「え、そうだったの?地味に傷つくわぁ……」
「アンタが話振ったんじゃん」
「じゃあ今は?」
「え」
「優しくなったってことは、気に食わなくなくなったってことだよな」
「まあ……まあそうだよ」
「さっき下の名前で呼んでたしな〜」
「…………そーいうとこが気に食わないんだってば」


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -