「アナタ、また自分の等級より上の任務を受けたでしょう」
ちくりとテーブルの向こうから飛んできた声に、私はトーストを齧る手を止めてげんなりした顔を見せた。こんな爽やかな朝になんて話題を振るんだこの人は……これから仕事に行く彼は良いかもしれないが、私は今日一日休みなのだ。できれば任務のにの字も聞きたくない。しかも、七海のこの手の説教は今日に始まったことではなく、つい数週間前にも夕食後に長々と聞かされたばかりだった。
この業界において、呪術師と呪霊には「等級」というものが存在する。それは二級の呪霊には二級の術師が、準一級の呪霊には準一級か一級の術師が、というように任務を采配する際の基準となるものであり、同時に、術師が自らの実力以上の呪霊と当たって命を散らすリスクを回避するための目安にもなっている。しかしそれは「規則」ではなくあくまで「目安」のため、術式の相性を見て一級呪霊に対し二級術師を派遣する、というようなケースも、人手不足が深刻化しているこの業界ではよくあることだった。
かくいう私も、二級術師ではあるが先日一級呪霊の任務に抜擢された。それは当然死に急ぎに行ったわけでなく、呪霊の特性と私の術式の相性、それからサポートについてくれたもう一人の二級術師の実力を加味して「完遂できる」と思ったから話を受けたわけで。
「……七海にアレコレ言われる筋合いないんだけど」
「アレコレ言ってません」
「い、言ってるじゃん……」
「自分の等級よりも上の任務は、リスクが大きいと言っているだけです」
ただでさえ上がつける等級はアテにならないのに。吐き捨てるように言った七海には、何か苦い記憶でもあるのだろう。彼の言うとおり、いざ任務に行ってみたら想定していた等級よりも明らかに上位の呪霊でした、なんてことは少なくない。それで命を落とした呪術師を、私たちは何人も見てきた。
「でも、それを言ったら何もできなくなるじゃない」
「……それは、そうですが」
「私だって人間なんだから、死ぬときは死ぬよ」
ガチャンと食器がぶつかる大きな音がした。驚いて顔を上げると、七海がトマトの刺さったままのフォークを皿に落としたのだった。……すみません。謝罪の声は平然としているように聞こえたけれど、トマトを口に放り込んで席を立ったときの顔は、見るからに怒っていて私は少し気圧される。
「その言葉、二度と私の前で言わないでください」
今朝、私たちはめずらしく喧嘩らしい喧嘩をしてしまったのだった。
心なしか大きな音を立てて玄関のドアを閉めた七海を見送ったあと、いつもの私なら寝室に戻り二度寝でも決め込むところだが、何だか落ち着かなくてそのまま洗面所に向かい洗濯機のスタートボタンを押した。ゴウンゴウンと大きく揺れる洗濯機をしばらく眺めてから、はあ、と大きな溜息を吐く。ずいぶん軽率に喧嘩をしてしまったものだ……あんなひと言で怒る七海も大概だけど、それを責める気にはなれなかった。だって、私も七海があんなことを言ったら手に持っていたトーストを投げつけるくらい怒る自信がある。フォークを落とすにとどめた七海は、むしろとても大人だった。
「……どうしようかな」
久しぶりに喧嘩をすると、仲直りの仕方に困る。「ごめん」と謝れば大人な七海は許してくれるだろうが、それでは何となく私の気がおさまらない。どうしようかなぁ。もう一度、今度は先程よりも大きな声で言いながらリビングに戻った。時計を見ればまだ八時を回ったところ、今日は丸一日休みなうえに予定もないので、彼のご機嫌取りの方法を考える時間はたっぷりある。
「せっかくの休みなのに、七海に潰されちゃうな」
愚痴っぽく言ったつもりなのに、少しも不満げに聞こえない自分の声に苦笑する。元々、相手を喜ばそうと何かをすることは好きだ。その相手が恋人ならなおさら。付き合って間もない頃なんか、いつもそんなことを考えていたような気がするけれど、こう何年も一緒にいると誕生日とかクリスマスとか、そういうきっかけがないと考えなくなってしまう。
ガサリと今朝の新聞に挟まっていたチラシを広げた。近所のスーパーの特売品を目で追いながら、頭の中ではあの人の好物を順番に並べていく。休日の静かなリビングには規則正しい秒針の音と、ゴウンゴウンという洗濯機が揺れる音と、やけに楽しげな鼻歌が響いていた。
七海がリビングのドアを開けると、名前が床に転がっていた。正しくは寝ていたのだが、横向きに倒れるように寝る姿は転がっているようにしか見えずハァと溜息が漏れる。……別に彼女がいつどこで寝ようが構わないが、すぐそこにソファーがあるのだからそっちで寝ればいいのに、といつも思う。カーペットを敷いているとはいえ、床で寝れば体のあちこちが痛くなるだろうに。
「……名前」
一瞬、今朝のことが頭をよぎって口を閉じかけたものの、彼女の名前を呼んだ。膝をついて軽く名前の肩を揺すると、半分ほど開いた瞳がぼんやりと自分を見上げる。おかえり。消え入るような声が聞こえたかと思えば、また音もなく落ちる瞼に、もう一度起こすのは諦めてそっと手を伸ばす。休日でほとんど化粧をしていないせいか、いつもより濃く見える目の下のクマを指でなぞれば、それから逃げるように彼女の肩が揺れた。
「……くすぐったい」
「なら起きてくださいよ」
「うん……」
「……」
「……何食べたい?」
「は?」
「だから、今日の夜、何食べたいかって」
「今日の夜……」
「うん」
「…………カレー」
「分かった」
「分かったって……もう作ってあるじゃないですか」
台所に置かれている鍋にはすでにカレーができている。七海はまだそれを見たわけではないが、リビングはもちろん、玄関を開けた時点で家中に漂うその香りに気付かないわけがなかった。そして悔しいことに……その瞬間からずっと、彼の気分は完全にカレーライス一色になってしまっている。
あのね。今日はカツもあるから。ぽつぽつと、まだ半分寝ているような頼りない声で名前が言う。今夜はね、カツカレーなんだよ。目を閉じたまま、わざわざそんなことを口にする彼女は明らかに自分の反応を気にしていて、それがたまらなくいじらしくて、七海は思わずふっと頬を緩めた。
「カツカレーですか。それは良いですね」
「そうでしょ」
「今朝はすみませんでした」
「……私も、ごめんなさい」
少し寝癖のついた前髪に触れれば、その下に申し訳なさそうな顔が見える。もうこの話は終わりにしましょう。七海がそう言うと、彼女は「うん」と小さく頷いて自分の髪を撫でていた手を取った。
名前の手は、外から帰ってきたばかりの自分の手より体温が高くてあたたかかった。となれば当然彼女にとって自分の手は冷たいだろうに、まるであたたかいもののように擦り寄ってくるのが、七海には可愛くて仕方がなかった。可愛くて、あたたかくて、いとしくて。だから絶対に失いたくないと思うのに。
「……アナタはいつも軽率で、少し困る」
「ん?何か言った?」
「いえ。カツ、もう揚げてあるんですか?」
「ううん。七海が帰ってきたらやろうと思って」
「私も手伝います」
「えっいいよ……今日は私、一日ゴロゴロしてただけだし……」
「だって、一人で揚げ物は危ないでしょう」
「…………冗談でしょ?」
「冗談ですけど。お願いだから火傷とかしないでくださいね」
「ひとりでできるもん!!」
「そういう教育番組みたいなこと言うから心配なんですよ」
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