「ちゃんと掴まってて」

その静かな声に、ぎゅ、と彼の制服を握り締めれば次の瞬間ふわりと身体が宙に浮いた。重力から放り出される感覚に、全身の肌が粟立つ。私を抱えたまま隣のビルの屋上へ着地した悠仁は、人一人抱えているとは思えない動きで呪霊の攻撃を躱すと、私をその場に下ろした。「俺が行く」そう言って地面を強く蹴った彼が、こちらに向かってくる呪霊を拳で消し飛ばすまでコンマ数秒。小さな破裂音とともに上がった白煙が、夜の深い闇に溶けて消えた。



「悠仁」

眼下に広がる繁華街の明かりが、かろうじて私たちの姿を浮かび上がらせていた。今この瞬間この場所に私たちが立っていて、彼らの目には見えない敵と戦っていただなんて、きっと夢にも思っていないだろう人たちの生活する音が、遠く遠くに聞こえている。
呪霊が消えた場所に立ち尽くしたまま、悠仁はいつまで経っても動かなかった。暗闇の中に彼の姿は視認できるものの、その表情までは読み取ることができなくて、だんだんと心がざわついていく。いつもより少し大きな声で名前を呼ぶと、彼はゆっくりと私の方を振り向いた。その眼差しが、暗闇から真っすぐにこちらを射抜いた眼光が、あまりにも強烈で、私は一瞬息をするのも忘れて、冷たくなった指先を強く握りしめていた。

「名前?」
「……あ」
「どうした?」
「う、ううん別に。悠仁、平気?」
「俺?うん、平気だけど」

タタ、と駆け寄ってきた悠仁の様子は普段と変わらない。さっきの嫌な予感は、どうやら私の気のせいだったらしい。暗くて高くて少し肌寒いこの場所に怖気づきでもしたんだろうか、情けない……ただでさえ、今日はちょこまかと動き回る呪霊相手に悠仁が駆け回るばかりで、私はちっとも役に立ってなかったというのに。
名前は怪我してない?そう言って、へらりといつもの笑みを浮かべる悠仁に肩の力が少し抜けた。それと同時に、ハア、と大きな溜息が口からこぼれる。

「うわっ、デケー溜息」
「ごめんね……」
「な、何で謝んの……?」
「今日全然役に立たなかったからさ。あと、さっき私を抱えたとき重かったでしょごめん、のごめん」
「ええ?別に重くなかったけど」

俺、二人同時に抱えたこともあるし全然ヘーキ。力こぶを見せるように腕を曲げてフンッと鼻を鳴らす悠仁に、今度は思わず笑い声が漏れる。前に、同期でもう一人の女子生徒である釘崎野薔薇が彼を指して「ゴリラ」と悪態をついていたのをふと思い出した(だから荷物持ちには最適なのよ、と最終的に褒めてるんだか貶してるんだか分からないことを言っていた)。あははと笑う私を見て、ふいに悠仁が口を閉じる。その表情は一転、まるで叱られる前の子供みたいな、困ったような苦しいような顔だったから、釣られて笑うのをやめた私はきっと変な顔をしていたに違いない。

「えと、悠仁……?」
「……名前、さっきさ」
「うん?」
「すごく不安そうな顔してた」

こちらへ伸ばされた手は、一度迷うように揺れて、それからそっと私の頬に触れた。するりと頬を撫でる指先も、私を見つめるその瞳も、優しいけれど悲しい色を帯びていて。ごめんなさい、と思わず口をついて出そうになった謝罪の言葉を、私はすんでのところで飲み込んだ。
両面宿儺という、指一本すら特級呪物になる呪いの王を、目の前の心優しい男の子はその身に宿していた。たった十六年、私と同じ年数しか生きていないのに、宿儺の指を全て取り込んだら死ななければならないのだという。悠仁と私たち、違うところよりも同じところを挙げる方が簡単なのに、どうしてそう容易く死刑だなんて言えるんだろう。悠仁と宿儺は違うのに。いつの日からか私は彼を、助けたい、と思うようになっていた。
それなのに私は臆病だ。あなたを助けるどころか怖がって、勝手に不安になって、悲しませている。

「……違う、私は、悠仁のことが」

宿儺は恐ろしかった。そして宿儺を宿す悠仁のことも、恐ろしいと思っていた。それでもたくさんの人を助けたいと、手の届く人たちには正しく死んでほしいと、いつも自分以外の誰かのために飛び出していく姿に憧れていた。この救いようのない世界で、綺麗事を綺麗事だと解っているのに諦めないところが羨ましかった。世界を変えてしまう力をその体に秘めながら、まるで台風の目にいるように静かで真っすぐなその瞳が、好きだった。
頬にあった悠仁の手を取って、その手のひらに唇をつける。「え」と言って顔を真っ赤にしている悠仁は、きっと私だけが知っているということにちょっぴり優越感。……私は、私が悠仁のことをどう思っているのか、この感情に何という名前を付ければいいのか今もよく分からなかった。ただ、まるで絵空事みたいなこの人の存在が、触れた手の体温から現実になっていくのが、少し悲しくて、とても愛しい。


「……『私は、悠仁のことが』?」
「え?」
「や、そこまで聞いて、続き気になるじゃん!」
「ああ……私は、悠仁のことが」
「が?」
「…………これどうやって帰るの?」
「ハ!?……そのドアは?」
「鍵掛かってる」
「……」
「……悠仁なら飛び降りれ」
「ここから飛び降りたらさすがに死ぬと思う」
「デスヨネ」
「ちょっと待って、伊地知さんに連絡するから(またうやむやにされた……)」



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