スピードを落としつつ道端に車を寄せ、ハザードランプを点けてからブレーキを踏む。車が完全に停止したところで、まるで計ったようにお腹がグゥ〜と鳴ったものだから、隣に座る後輩の手前私は思わず赤面した。

「………ごめん」
「いえ、こちらこそ遅くなってしまってすみません」

赤い顔でうなだれる私に、車を降りる準備をしていた七海くんは哀れみの目を向けるどころかそんなことを言って軽く頭を下げた。真面目な人だ。私は「ううん全然」と首を横に振ってから、まだ少し表情の固い彼にへらりと笑いかける。

ひと月前に出戻りを果たした後輩の七海建人は、定時上がりを信条としているらしく、これまで何度か同行した任務では終わりが十八時を過ぎたことがなかった。しかし今日は存外苦戦したようで(とはいえ七海くんのキャリアからしたら十分な成果だが)、車の時計は十九時を回っている。でもここまで時間を気にする術師なんてのは彼くらいで、平気で予定より数時間待たせられたり、同行するはずの術師が勝手に先行してとんでもない時間に呼び出されたり……そんなことには慣れっこなので、正直七海くんの定時一時間オーバーなんてのは私にとって可愛いものなのだった。……時間が時間なので、お腹は空いたけれど。

今日はここで七海くんを降ろし、高専に戻って車の鍵を返して報告書を提出したら任務完了だ。夕飯は家に帰ってから食べるとして、高専に戻る前に軽くコンビニで何か買っていこうか……そんなことをぼんやり考えていれば、車のドアを開けようとしていた七海くんがふと手を止めて、こちらを振り向いた。

「あの、」
「どうかした?」
「よければこのまま食事でもどうですか?……時間も時間ですし」

突然の誘いにキョトンとした顔をしている名前を見て、七海は断じて彼女に対して下心があるわけではなかったが、多少気まずくなって歯切れが悪くなった。名前はといえば、「この後輩はこうして他人を食事に誘うタイプだっただろうか?」とか「そんなに気を遣わせるほどさっきの私のお腹の音は大きかっただろうか?」なんてことを思っていただけだったのだが、彼女が黙っているのは自分の意図が知れないからだろう、と考えた七海は言葉を続ける。

「……ひと月前に戻ったばかりで、まだ慣れないことが多いんですよ。名字さんが良ければ、食事がてら私が離れていた間のことを教えてもらえませんか?」

眼鏡をカチャリと押し上げた七海くんは、その髪型や顔つきといい、身に纏う雰囲気といい、高専時代からずいぶん変わったように感じていたけれど。この丁寧で優しくて、何だかんだ素直な話し方はあの頃からちっとも変わっていないんだなぁ。ふとこみ上げた懐かしさに、私は自分の顔が自然と綻んでいくのが分かった。

「うん、いいよ」
「……本当ですか?」
「もちろん。私の話が参考になるかは分からない……けど……」
「?名字さん、どうかし」

次の瞬間、コンコンと窓ガラスを叩く音が車内に響いて心臓が止まりそうになった。七海くんの向こうには、窓越しに笑顔でヒラヒラと手を振るサングラスの男がいる。開けろ。有無を言わさぬ調子で動いた彼の唇に、私は心の中で七海くんごめんと平謝りしながら助手席側の窓の開閉ボタンを押した。

「やっほーお二人さん、おつかれサマンサ〜」
「……五条くん何でいるの?」
「何で?名前を迎えに来ただけだけど?」
「名字さんはこれから私と食事に行く予定なんですが」
「…………は?」

間髪入れず飛んできた後輩の発言に、彼の周囲の空気がメラッと揺れる。七海くんも少し気圧されたのか、やや身を引きながらも「どうしてアナタが名字さんの行動に口出すんですか」と食い下がった。七海くん、勇者である。

「ハァ?逆にどーして七海にんなこと言われなきゃなんねーの」
「先に答えてくださいよ」
「僕が名前の彼氏だからだよ」
「……」

堂々と言い放たれたその言葉に、七海くんはゆっくりとこちらを振り向く。私がコクリと頷けば、彼はそのまま(五条くんには見えない角度で)苦いものを噛んだような顔をした。……ああそうか、七海くんがここへ出戻ったのはついひと月前なわけで。高専を出てから付き合い始めた私たち二人の関係を彼が知らないのも当然のことだった。

「ごめん七海くん、言うの忘れてた……」
「……いえ別に。名字さん、男の趣味悪いですね」
「七海ソレ聞こえてるかんな」
「今日のところはお邪魔のようなので帰ります」
「ほ、本当にごめんね七海くん」
「構いませんよ」
「帰れ帰れー!!」
「……ああでも、」

車のドアを開けて、五条くんを押しのけるようにして外に出た七海くんは開いたままの窓に顔を寄せた。「さっきの件は、また今度」そう言って、ちいさく笑みを浮かべた七海くんに私はぱちくりと瞬きをする。さっきの件……ああ、離れていた間のことを教えてほしいって言ってたことか。七海くんも何かと不安なとこあるんだろうな……。去っていく彼の背中を見つめながらそんなことを思っていれば、バタンと車のドアが閉まる音で意識が引き戻される。気がつけば助手席には五条くんが座っていて、ニッコリと口元は笑っているもののサングラス越しの瞳は一ミリも笑っていなかった。

「何?さっきの件って」
「ああ、それは……」
「てか七海とメシ行くつもりだったでしょ」
「う、だからそれは」
「何それ、名前浮気するつもりだったわけ?」

どんどん距離を詰めてくる五条くんに、思わず後ずされば逃がすまいというように腕を取られた。その瞬間、ゴンッと天井に頭をぶつける鈍い音と大きな舌打ちの音が聞こえる。身長百九十センチ以上ある男が動くには、この車内は狭すぎるのだ。

「イッッテェ……」
「だ、大丈夫?」
「全然だいじょばない」
「ねえ、別に浮気なんかじゃないってば」
「……分かってるよそんなこと。ただ、」

僕がヤなだけ。拗ねたような声と一緒に長い腕が伸びてきて、ぎゅっと強く抱きしめられる。頭を抱えられているせいで視界が真っ暗だ。さらに顔が五条くんの胸に押しつけられているから、息がちょっと……いやかなり苦しい。
そんな小さな子供みたいなこと、言われたってどうしようもないし五条くんだって言ったところでどうしようもないことは分かっているはずだ。それなのに、彼は口にするし抱きしめるし一度掴んだその手を決して離そうとはしないのだった。彼がこんな風になったのはいつからだっけ。こんな……前に硝子が五条くんを揶揄したときの言葉を借りるなら、「愛が重い」と感じるようになったのは。

「……五条くん苦しい」
「僕のが苦しい」
「いや、そーいうのじゃなくまじで……」
「あーあ、今後一切七海と二人で会うの禁止。てか、他の男と二人きりになるの絶対ダメ」
「しっ仕事できなくなるじゃん……!」
「女の術士とだけ組めばいいだろ。あ、冥さんの秘書とかどう?」
「冥さん余計な人件費は払わないと思うよ」
「その分は僕が払うから問題ナシ」
「それは……それは本当に五条くんがやったら私は五条くんのこと嫌いになると思う」
「……じゃーやらない」
「五条くん大好き」
「……」
「五条くん、それ以上強く抱きしめられたら私死んじゃうからやめて……」
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